21世紀に入ってからの日本の経営は、足元の景気の浮沈を超越したところで、深い閉塞感に覆われ続けてきた。その根本的な要因はどこにあるのか。そして、閉塞感を突き抜ける道はどこに開けているのか。コーポレイト ディレクション代表の石井光太郎氏に聞いた。
矮小化された「経営観」
──日本発の経営戦略コンサルティングファームとして、コーポレイト ディレクション(CDI)がこれまでの30年間、見つめ続けてきたものは何なのでしょうか。

代表パートナー
石井 光太郎
KOTARO ISHII
東京大学経済学部卒。ボストン コンサルティング グループを経て、1986年コーポレイト ディレクション設立に参加。2003年代表パートナーに就任し、現在に至る。
石井(以下略)ひと言でいえば、会社の「経営観」とでも呼ぶべきものです。
経営戦略やそれに基づくさまざまな施策は、ヒト・モノ・カネといった会社の経営資源、つまりは経営する対象の問題ですが、「経営観」は、経営する側の頭の中の問題です。経営する側がものを見て、考え、判断する背骨となる「価値のものさし」ともいえます。
会社の「経営観」が、時代とともに遷移する経営課題との苦闘を通じて磨かれていく、そのプロセスこそが経営の進化なのだと我々は考えます。経営者にとっての本当の難問とは、「価値を達成する方法」の選択ではなく、自らが生み出すべき「価値そのもの」の選択であるのです。
百年を超える歴史を持つある老舗企業の経営者に、「会社が成長するということと、会社が生きるということとは、違うことなのだよ」と言われたことがあります。この言葉は、経営とは究極的には、複数の価値軸の選択、あるいは輻輳する価値軸のバランスの選択であることに、あらためて気づかせてくれます。この輻輳した価値軸の束を、例えば株主利益などの一点に収れんさせようとしたところで、それは「幸福な幻想」だと少し考えれば気づくはずです。
あらためて現状を見れば、「成長」とは何かということも、あるいは企業の「価値」とは何かという大事なことも、なんとも無自覚に扱われるようになってしまいました。「成長」といってもせいぜい売上高か利益の伸び、「企業価値」といってもいまや、人間を体重計に載せるのと同じようにただ決まったものさしで行う単なる「計測」でしかなくなっています。
既定のゲームに勝ち残るための体力測定や筋トレだけは随分と強化された一方で、経営する側の「経営観」に目を転じると、それがひどく矮小化され、貧弱なものになってしまった。それは残念で、憂うべきことです。
世のコンサルタントと呼ばれる人たちもまた、既定のゲームの「解き方」にばかり専念し、「なぜそのゲームを戦っているのか」「そのゲームの戦いにどのような意味があるのか」「ゲームはなぜそうしたルールでなければならないのか」といった本質的な問いには無頓着、あるいはそれに立ち入る感性も持ち合わせない、悪い意味での「専門家」ばかりが増え、この流れを後押ししてしまっています。
問題は、それを果たして経営の進化と呼べるのか、ということです。