シティコープ(以下シティと略す)の会長兼CEOのジョン S. リードは、挑戦のためなら組織の内外で波風を立てることをけっして躊躇しない。

 1990年当時、リードはアメリカ最強といわれるシティで25年間の勤務経験を持っていたが.その間に彼は主要な業務部門の急進的な変革を推進し、まったくのゼロから新しい事業を興して多大な利益を得た。

 また、第三世界の累積債務問題という重要かつやっかいな仕事でも、きわめて明確な役割を果たした。彼が初めて頭角を現したのは、70年代初めに事務部門の大改造を行ったときだった。

 その後、彼は同銀行内に個人金融部門を構築したが、この部門はクレジットカード業務、個人金融業務、住宅抵当証券業務を中心とする一大世界網に発展し、90年当時には10億ドル以上を稼ぎ出すまでに成長した。

 84年9月1日に会長に就任したリードは、世界で最初の、本当の意味で世界的規模の金融機関をつくり上げる、という非常に明瞭な野心を抱いた。同時に彼は、その目的を持って経営を行う際に生じるであろう緊張と挑戦についても、はっきりと意識した。

 シティは確かに規模こそ大きかったが、その財務面にはいろいろな制約的要因が見られた。

 たとえば.第三世界の累積債務に対して、40億ドルもの貸倒引当金を積んでいるために、貸借対照表のバランスが不安定なものとなり、欧米で、健全かつ大規模な経営を行っている他の金融機関を買収する能力に、限界が生じていた。実際、一般的に容認されている財務比率のほとんどすべての点で、シティは海外のより大規模な競争相手ばかりか、もっと小規模な多くの国内金融機関よりも劣っていた。

 リードは財務面だけでなく、人的資源や組織の問題においても試練に立たされていた。

 シティの多くの営業部門は、世界中に展開している。特に、個人金融部門は世界中に網の目のように支店を配置している。これは、世界企業としての一つの最良のモデルとして評価できる。発展途上国では商業銀行業務、金融業務を行い、それぞれ上手に位置づけて、非常に儲けていた。「金融機関グループ」は他の金融機関を相手に世界中で取引していたが、これも順調であったし、「ワールド・コーポレーション・グループ」も同様に、多国籍企業を対象として利益を上げていた。