アメリカ企業の製造業への投資は少ない。その結果、アメリカ企業の競争力は低下してきており、このことは10年以上にもわたって、由々しい問題として議論されてきた。その間、評論家たちは、このアメリカ企業の近視眼的な投資行動について、多くの弁解を試みてきた。高いインフレ、厳しい不況、強いドル、弱いドル、法人税、アメリカの通商政策、アメリカ人の一般的な貧欲性・近視眼性のすべてについて、製造業への投資を再開するうえで障害になると非難してきた。そして、このような一連の弁解の中で、「アメリカの資本コストは、アメリカ以外の国、特に日本よりも継続してかなり高い」という弁解が、着実に支持者を得てきており、何か一種の信仰のようなものにすらなってきているのである。

 DEC(Digital Equipment Corporation)社のオルセン(K. Olsen)社長は、「アメリカの資本コストが高いので投資が抑制され、多くの事業が海外へ追いやられている」と述べている(1)。ETAスーパーコンピュータ・プロジェクトを断念したコントロール・データ社の前社長レッドベター(C. Ledbetter)は「自社の資本コストがもっと低ければ、そのプロジェクトをあきらめずにすんだであろう」と主張している(2)。この2人に賛同しているのは、鉄鋼、電子機器、工作機械などの産業の重役たちである。彼らはみな、アメリカにおける相対的に高い資本コストによって、多くのアメリカ産業にかなりのハンディキャップが負わされていると考えている。

 これは、外見上はもっともらしく思える派手な議論ではあるが、説得力もなければ、有用でもない。実際、危険ですらある。アメリカ製造業の投資が少ないことを資本コストのせいにするのは、妥当でないだけでなく、大きな犠牲を払わされるような自己満足に陥ることになる。しかも、「アメリカの製造業が継続して日本よりもかなり高い平均資本コストを払わされてきた」とする主張には、実証的な証拠による裏付けは何もない。実証的な証拠は、日米間の資本コストの相違は広範かつ継続的なものではなく、個別的で一時的なものにすぎないことを示している。しかしながら、アメリカの多くの経営者は「日本よりも高い資本コストを払わされている」という考えに固執している。以下考察するように、このような考え方は、「アメリカの経営者は資本市場に精通している」という疑わしい仮定と、より重要なことには、資本コスト論争を支持する欠点の多く、しかも間違ったアメリカでの学術研究が資本コスト論争を支持していることによって生まれている。

資本コストに関する一般的理解

 最近筆者らは、ハーバード・ビジネス・スクールの重役対象の教育コースに参加した50人の財務担当役員(アメリカ企業25人、非アメリカ企業25人)に対して、非公式な調査を行った。そのうちの90%もの人が「資本コストは国ごとに異なっている」と考え、特にアメリカ人は「アメリカよりも資本コストが高いのはイギリスだけである」と見ていた。

 けれども、「貴社で真の資本コストはいくらか」と尋ねたとき、アメリカ企業の財務担当役員は、アメリカ以外の企業の役員が答えた数値よりも、平均して2.3%も低い数値を回答した。アメリカ企業の役員の多くは、この結果に驚いた。なぜなら、資本コストに関する彼らの理解と日々直面している現実との間にかなりのギャップのあることを、その結果が明確に示しているからである。

 事実、過去10年間、アメリカの経営者は、1980年代におけるアメリカの2桁台の利子率を日本における1桁台の利子率と比較して、「アメリカのほうが資本コストは高い」と確信してきた。最近10年間ではほとんど、ドルの名目利子率よりも円の名目利子率のほうが低かった。アメリカの多くの経営者は、インフレを調整した実質利子率と名目利子率とを区別することの重要性を認識している。しかしながら、各国間の資本コストを比較する際には、すべての経営者がこの区別を行っているわけではない。

 この名目利回りにおける日米間の相違のみが「日本企業は資本をより安いコストで利用できる」という結論の根拠であるとするならば、アメリカの経営者は、円建てで借り入れることによって簡単に、日本と同じ条件に立つことができよう。しかし、今後は一般に円高(対ドル比)になると予想されているので、将来満期になったときに円建ての債務を返済するには、より多くの円が、それゆえより多くのドルが必要となろう。したがって、円建てによる借入金は、一見したときよりも高価になる。

 円とドルの資本コストは実質投資収益率によってのみ妥当な比較ができる。しかしながら、そのような比較を行っている大部分の研究は、奇妙な1組の仮定を出発点として議論を進めている。すなわち、一方では、日本とアメリカの資本市場がお互い効果的に分割されていると仮定している(市場が統合されていれば、日本とアメリカの資本コストは等しくなろう)。反面、日本とアメリカの製品市場は、かなり高度に統合されていると仮定している(そうでなければ、日米間の資本コストの相違が競争に及ぼす影響はそれほどではない)。これらの仮定の1つ1つは、それを単独で見ると、両市場の一部を適切に記述している。しかし、それらを一緒にして経済全体に当てはめてみると、それらの仮定には疑問が残る。資本は少なくともたいていの製品と同じように代替可能であり、貯蔵可能であり、移転可能である。実際、日々の世界的な資本の動きは、製品の毎日の動きに匹敵するほど大きい。では、製品市場はよく統合されているのに、資本市場はそうではないとなぜ仮定すべきなのか。

 アメリカの経営者にこの疑問を投げかけてみよ。そのとき、彼らの大部分は「日本は特別なケースである」と答えるだろう。歴史的に見て高い日本の国民貯蓄率をもとに、日本政府は多額で自由に使える貯蓄資金を、非常に有利な条件で次々と日本の産業に配分してきた。これはすべて真実である。しかし、次の2つの理由から、これもやはり納得のいく議論ではない。

 第1に、この"貯蓄のわな"仮説は、需要面を無視している。日本における資本の国内需要が低すぎて、その貯蓄を吸収することができない場合にのみ、貯蓄のわなによって資本コストが低くなりうる。しかしながら、日本の企業経営者は例外なく、「日本が2桁台の実質成長率を達成していた期間は、資本が豊富ではなく、資本不足が深刻であった」と話している。日本では、資本に対する需要が強かったので、多くの価値あるプロジェクトに簡単に資金を供給することはできなかったのである。恵まれた産業は、不自然なほど低い利子率で資本を調達できた。けれども、他の産業やプロジェクトでは資本が枯渇していたため、資本を自由に調達できるほど資本コストは低くならなかった。その上、日本政府は付帯条件なしには、安いコストで資本を提供するようなことはなかった。そのような付帯条件はアメリカの経営者なら十中八九受け入れることができないであろう。「"安い"資本は見かけほど安くはない」ということを思い起こす必要がある。