勢い、各部門は外国人幹部の言いなりになってしまう。マーケティング部門を例にとれば、「日本の消費者は、その広告を受け入れないでしょう」と諌めることのできる能力を持つ日本人はほとんどいなかった。
強力なライバルのいる日本市場
追いつめられた中で生まれた新戦略
一方、日本流の代表は人事制度である。「外資系企業なのだから、最初から欧米流の人事だったのでは」と思われるかもしれないが、設立以来、年功序列と終身雇用、男性社員中心の仕組みは強固に維持されていた。私はその変革を提案したが、何しろこちらは新入社員である。若造の言葉に耳を傾ける人はほとんどいなかった。営業部門にも同じような雰囲気があった。「人間関係で売る」という古い日本的なスタイルが主流だったのである。
私は日本で4年間働いた後、米国の工場に転勤した。このころ、80年代の前半はP&Gジャパンにとってまさに正念場の時期だった。
花王やライオンは強力なライバルである。P&Gジャパンは両社のホームグラウンドで戦う明確な戦略を描けず、「競合がこんな手を打ってきた。さて、どうするか」といった反応のゲームにのめり込んでいた。「P&Gは日本からの撤退を検討している」という噂もあったようだ。日本市場を重視するP&Gの姿勢は不変だったが、その種の憶測が一定のリアリティを持つほど追いつめられていたのである。
そんな閉塞感を打ち破ったのが、ダーク・ヤーガー氏である。82年にP&Gジャパンのマーケティング部門責任者として日本に赴任し、85年に社長に就任したヤーガー氏は、「一大飛躍」と名付けたスローガンを掲げ、構造改革に着手した。それは財務や組織、人事、生産、マーケティング、営業などに関わる全社的な取り組みである。そこにはさまざまな側面があるのだが、ひと言で言えば「もっと消費者の声を聞こう」ということだ。
日本の消費者が求める洗剤は、石鹸は、紙おむつはどのようなものなのか。消費者を知るための施策を徹底し、得られた理解に基づいて製品や広告などを改良する。「日本市場に合わせたローカライゼーション」という言い方もできるだろう。しかし、「消費者理解に立脚し、消費者との関係強化を図る」というのは、P&Gの得意とする、P&G流の戦い方なのである。
ヤーガー氏の戦略は、P&Gジャパンにスローガン通りの飛躍をもたらした。80年代半ばから90年前後にかけて、P&Gジャパンは急成長を遂げる。売上高は80年代後半に3倍以上に増えた。ヤーガー氏は89年に日本を去り、後にP&GのCEOとして采配を振るった。