ライフサイエンスにおけるデータ活用の流れは不可逆的

西上慎司
デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 ライフサイエンス&ヘルスケア パートナー

民間シンクタンクを経て現職。製薬、医療機器メーカーを中心に、マネジメント変革、グローバル組織設計、デジタル戦略・組織構築などのプロジェクトを手がける。ヘルスケアの未来像を描いた「データドリヴン・ライフブリリアンス」の監修など、講演・寄稿多数。

西上 20年前と比べると奥野先生を取り巻く研究環境、ライフサイエンスにおけるビッグデータ活用は大きく変わってきたわけですね。

奥野 正直にいうと、自分が現役研究者の間にこれほど活動範囲や社会への影響力が広がるとは思っていませんでした。もちろん、研究としてはまだまだ未開拓、未知の領域が多いので、ようやくスタート地点に立ったくらいの心構えでいます。

 ただ、はっきりといえるのは、ライフサイエンスにおけるデータ活用の流れが元に戻ることは決してない、データドリブンの医療や創薬などはもっともっと進んでいくということです。

西上 そうですね。社会のさまざまな仕組みや活動がもっとデータ駆動型になっていくでしょうし、そうなるべきだと私も思います。

 データ駆動型の社会、あるいは社会のデジタル化が進んだ先の未来を奥野先生はどのようにイメージしていらっしゃいますか。創薬の領域でもテクノロジーの活用によって大きな生産性向上が見込まれていますが、AIやロボットが人の仕事を奪うのではと懸念する声も根強くあります。

奥野 私は今回のオリンピックを見て、選手の活躍や奮闘ぶりにものすごく感動したのですが、どれだけAIやデータサイエンスが進化しても、オリンピック選手に機械が取って代わる未来は誰も想像できませんよね。だから、人間にしかできないこと、人間の思いがあるからこそ感動や共感を生むことはなくならないし、それはAIやデータサイエンスとはまったく別のフィールドですよね。

 人間とAIが融合していくとか、あらゆる場面で人と機械が共存する社会になるというのは、大きな勘違いだと思います。人間がやらなくてもいいこと、やりたいと思わないことはどんどん機械にやらせていいし、本来人間にしかできないこと、人間が考えるべきこと、人間が思いを持ってやるべきこと、そういったところに集中すればいい。将来は、間違いなくそうなっていくだろうと思います。

 データサイエンスの教育は確かに重要なのですが、それ以上に自分で考えたり、想像したり、自分の思いを伝えたり、そういう人間らしい能力がもっと見直されていくのではないでしょうか。データサイエンスやデジタル技術が進化することによって、人間らしさがよりフィーチャーされる社会になっていくだろうと私は想像しています。

 一方で、データサイエンスのポテンシャルは多くの人たちが考えているより、もっと大きいという確信も持っているので、データサイエンティストが活躍する場はさらに大きく広がると思います。

高齢化社会に向かうなか、データに基づく健康管理に取り組むしかない

西上 いまのお話を医療の未来に照らし合わせると、データ駆動型の医療が進むことによって、医師をはじめとする医療現場の人たちは、機械で代替できない、より人間らしい仕事、人間にしかできない仕事に集中するようになるとお考えですか。

奥野 世界的に高齢化社会に向かっているので、いかに医療現場の負担を減らすか、つまり入院患者や来院患者が増えないように、健康な状態の人を増やすかということがものすごく大事になりますよね。それは、コロナ禍による医療現場の逼迫を見ても明らかです。そのためには、データに基づく健康管理、健康増進に取り組むしかありません。

 人が健康を保つためにはデータを取るのは当たり前のことで、そこは是も非もありません。ですから、なるべく患者負担、受益者負担をかけずに、データに基づいて健康維持ができるような仕組みをつくっていくしかない。

 そういう仕組みが、医師などの専門領域を侵すものではないし、データサイエンティストやAIが医師の仕事に取って代わることができるわけでもない。それは、先ほどのオリンピック選手の話と同じです。

根岸彰一
デロイト トーマツ コンサルティング合同会社
執行役員 ライフサイエンス&ヘルスケア

医薬・医療機器などの内資/外資系ライフサイエンス企業や他業界からの参入企業に対して、戦略立案、オペレーション/組織改革、およびデジタル戦略立案/実行支援、アウトソーシング戦略立案、当局規制コンプライアンス対応などのプロジェクトを数多く手がけている。

根岸 データ駆動型の医療や予防を進めていくには、医療・ヘルスケアサービスの提供側だけでなく受益者側、つまり我々一般市民のデータリテラシーというか、データがもたらす価値への理解も高めていく必要があるといつも思っています。そこが理解できないと、自分のデータを提供したり、健康維持のためにデータを積極的に活用したりするといった行動変容につながらないのではないかという懸念があります。

奥野 受益者側のデータリテラシーを高めるには、価値を実感してもらうのがいちばんの早道でしょうね。たとえば、血圧や心拍数といったデータが自動的に記録され、その分析結果をアプリケーションが通知する。それだけではなくて、血圧や心拍数を下げるための食事であったり、運動や生活習慣であったり、何らかのソリューションを提供するサービスと連携していて、すぐにそのサービスを利用することができる。そういうサービス設計ができていれば、データが持つ価値を実感しやすいですし、自然とデータリテラシーは高まっていくのではないでしょうか。

 一方で、新型コロナ感染症ワクチンでも副反応に関してさまざまな偽情報がネット上で飛び交い、それを鵜呑みにして接種を忌避する人が少なからずいるようですが、そういう意味での情報リテラシーについては底上げしていく必要はあると思います。

西上 日本はヘルスケアデータの統合や利活用の環境整備が最も遅れている国の一つであるといわれています。そのような状況を打開し、国としてデータ駆動型の医療・ヘルスケアを推進するうえで、仮に奥野先生が全権を委任されるような立場だったとしたら、何に最優先で取り組みますか。

奥野 そこは非常にシンプルで、ヘルスケアデータは公共財であることを明確に規定して、国の責任でデータを整備することですね。どれだけ、AIやビッグデータ解析技術が発達したところで、わずかなデータしかなければできることは限られます。

 一部の医療機関や研究機関、民間企業に閉じたデータではなく、国の公共財として国民のヘルスケアデータを整備する。これはまさに公共事業であって、大学や民間企業ができることではありません。

 そして、セキュリティやプライバシーの保護をしっかりと行ったうえで、研究機関や企業が病気予防や健康増進のための研究開発にデータを活用できるようにする。それをやらないと研究者や企業は、ビッグデータを使える海外に流れてしまい、受益者である日本国民が損害を被るというか、得るべき利益を遺失してしまうことになります。