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ヒエラルキーは非難されているが──
組織のヒエラルキー(階層構造)を高く評価する人はまずいない。学者もコンサルタントも、はたまたベテラン経営者も、新たな平等主義的な組織構造が近々ヒエラルキーに取って代わるだろうと予測している。
1989年、ピーター F. ドラッカーが、未来の企業は1人の指揮者が1000人以上の演奏家や歌手を──仲介者も助手もいっさいなしに──指揮するマーラーの『交響曲第八番』のような「シンフォニー・モデル」になると予測した。
その10年後、ギフォード・ピンチョーは[注]「支配と服従に基づく」ヒエラルキー組織に代わって、ハイテク時代とポストモダン型の自我によりマッチしたコミュニティが現れる日は近いと訴えた。
たいていの人は、ヒエラルキーにまつわる嫌な逸話を持っている。たとえば、ジミー・カーター政権の国内政策の担当スタッフだった人物の場合はこんなものだ。
ある金曜日の午後、ある問題に関する詳細な報告書を月曜の朝までに必ず大統領に届けるようにとの命令が下った。スタッフ一同は「すわ一大事」とばかり、週末を潰してまで働き通した。データを集めて検討したり、数字を再確認したり、いったん結論をまとめるとまた議論して書き直す。あるスタッフに至っては、子どもの10歳の誕生日パーティまで中止した。とにかく、締め切りは守らなければならない。そして間に合った。月曜の早朝には、きちんと製本された報告書が大統領のデスクに載っていた。
月曜日、大統領執務室からは何の反応もないまま一日が過ぎていった。火曜日も同じように過ぎていった。水曜日になると、スタッフの気分は高揚感と使命感から不安感に変わり、やがて怒りと皮肉へと変化した。
案の定、カーター大統領は実際にその問題の報告書を必要としていたわけではなかった。単に大統領は、その問題への取り組みがどんなふうに進んでいるか知りたいと数人の側近に漏らしただけだったのだ。