GMの財務

 ゼネラルモーターズ(以下GM)は高い成長力を持った企業である。これまで述べてきたことは、この一点に集約されるだろう。設立まもない時期こそ、自動車産業全体の成長スピードについていくことはできなかった。

 しかし1918年以降は、主として新経営陣による多様な施策が効を奏して、業界平均を凌ぐスピードで成長を遂げ、トップメーカーの地位を占めるまでになった。リーディング・カンパニーとして業界への貢献も果たしてきたと自負している。

 社員、株主、ディーラー、消費者、サプライヤー、そして政府にも少なからず寄与してきた。GMの発展はこれらすべての関係者に利益をもたらしてきたが、この章では主に株主との関係に光を当てながら財務面での成長について述べていく。

 GMは所有者にどのように奉仕してきたのか。それを知るには、何よりも財務報告書をひもとくことだろう。そこには、資金がどのように調達、確保され、現在までどのように生かされてきたかが示されている。

 GMの株主は、事業の成功によって多大な金銭的ベネフィットを得てきた。創業以来、GMの利益はそのおよそ3分の2が配当金として分配されている。他企業を見渡しても、きわめて高い水準である。株主はGMの成長を後押しし必要な資金を提供するために、多大な再投資を行ってきた。

 このため、やむをえないことではあるが、生産施設を拡大したり、多額の運転資本を要したりした時期には、配当額はけっして十分ではなかった。すなわち株主は、リターンが約束されていない状況でリスクを引き受け、創業まもない時期には低いリターンに耐えてくれた。

 当時、金融業界は概して、GMを含めた自動車業界の現状と将来性に悲観的だった。事実、自動車メーカーの多くは――いずれも成功への情熱を持っていたにもかかわらず――すでに市場から消え、株主に損失を残した。したがって、GM株主の得てきた金銭的リターンについては、不確実な将来への投資という観点から考えることが欠かせないのである。

 GMの歴史を財務の視点から振り返ると、大きく3つの時期に分けられるだろう。

・第1期(1908~29年):長期拡大期
・第2期(1930~45年):大恐慌と第2次世界大戦
・第3期(1945年~):戦後の再拡大期

 もっとも、詳しく見ていけば、それぞれの時期がさらに拡大、縮小、安定といったサイクルに分けられる。すでに述べたように、GMの設立者ウィリアム S. デュラントは1908年から翌年にかけて多数の企業――その中心はビュイック、キャデラック、そして部品メーカー数社である――を統合した。そのための資金調達をめぐって氏は深刻な大問題に直面し、1910年には一時経営の実権を奪われる。

 このようにして、デュラントが事業を急拡大した後、銀行団が堅実路線によって経営を立て直したため、1910年から15年にかけては縮小と安定の時期と呼べる。この間、事業はわずかに成長したが、業界平均には及ばなかった。

 続く1916年から20年まで、とりわけ18年以降、復権したデュラントが、デュポン社からの出資を後ろ盾にジョン A. ラスコブと二人三脚で再び拡大路線を取った。この際には、借り入れや株式発行などさまざまな資金調達手法が用いられた。

事業拡大期
1918~20年

 1918年から20年までの3年間で、GMは2億1500万ドルの設備投資を行っている。子会社への投資(6500万ドル超)を合わせると、この間の投資総額は2億8000万ドルを超えている。

 これは当時としてはとてつもない金額だった。それというのも、1918年1月1日時点でGMの総資産はおよそ1億3500万ドル、工場の総資産価値は4000万ドルにすぎなかったのである。

 1920年末には総資産は5億7500万ドル、すなわち1917年末の4倍以上に、全社の工場価値はおよそ2500万ドルと6倍超に膨らんでいた。一部には、サムソン・トラクターの買収のような失敗もあったが、この拡大路線はデュラントの退陣後も投資の指針であり続けた。

 1918年から20年にかけて多大な設備投資をしたことで、20年代にはそれまでと異なったかたちでの事業拡大が実現した。

 18年初頭の段階では、GMは乗用車4事業部――ビュイック、キャデラック、オークランド、オールズ――とトラック事業部を擁するのみで、低価格市場向けの小型車については生産施設がなかった。照明装置、点火装置、ローラーベアリング、ボールベアリングなどの部品や付属品については提携サプライヤーも、研究組織も持っていなかった。

 20年には乗用車とトラックの販売数は合計39万3000台と、18年(20万5000台)の2倍に迫る勢いだった。生産能力も18年初頭の22万3000台(年間ベース)から22年には75万台へと拡大している。この拡大分のほとんどが大衆向け価格車〈シボレー〉の生産に振り向けられた。

 他に、電気機器、ラジエーター、減摩ベアリング、ホイールリム、ステアリング、トランスミッション、エンジン、車軸、オープン・ボディなどの生産施設を充実させ、フィッシャー・ボディ・コーポレーション(以下フィッシャー・ボディ)に出資して、当時普及し始めていたクローズド・ボディについても調達への道をつけていた。研究部門も設けていた。

 もとより、これだけの拡大を利益のみで賄えるはずはなかった。自動車産業はいまだ揺籃期にあり、GMも生産量の拡大に向けて下地づくりをしていた。シボレーとユナイテッド・モーターズの買収、フィッシャー・ボディへの60%出資には、GM株式が用いられた。しかし、関連する支出はほとんどを現金で賄ったため、資本市場から調達しなければならなかった。

 1918年12月31日、取締役会は普通株式24万株をデュポン社に売却することを決め、さらなる拡大への資金が手当てされた。これによってGMは2900万ドル近くを手にした。

 1919年5月には、ドミニック・アンド・ドミニック(ニューヨーク)とレアド・アンド・カンパニー(ウィルミントン)によるシンジケート団を結成して、年利6%の優先社債を発行した。この時、デュラントが引受企業に向け、その依頼の手紙を書いている。

 1919年7月2日に引受シンジケートは解散となったが、その時までに発行された社債は3000万ドルのみで、GMは2500万ドルの資金を調達した。追加発行予定だった2000万ドル相当は、棚上げされたままとなった。

 この資金のみでは、設備投資、運転資本共に十分にはカバーできなかった。とりわけ資材・部品の購入費用は、設備投資額をも上回るペースで増えていた。そのうえで1920年初めに再び大規模な資金調達に踏み切って、利回り6%の優先社債を保有する投資家には、7%の新規発行社債を2口購入できるようにした。支払方法は①全額現金、②半額を現金、残りを利回り6%の優先株式あるいは社債、の二とおりであった。デュラントは新規発行社債について、株主に訴えた。

 この新規発行は十分な成果を上げられなかった。新規発行を契機に投資コミュニティに、「GMは社内の諸問題を解決する力を失っているのではないか」といった懸念が広がったのである。

 デュラントとラスコブは8500万ドルを調達したいと考えていたが、実際の調達額はわずか1100万ドルにとどまった。やむなくデュポン社に支援を要請して、1920年夏に6000万ドル超の普通株式を発行し、その直後には銀行団から8000万ドル超の融資を受けた。

 このようにしてGMは、1918年1月1日から1920年12月31日までの3年間で使用資本を3億1600万ドルほど増やすことができた[注1]。このうち5400万ドルは利益の再投資によるもので、5800万ドルの株主配当金を出した後の金額である。他の増額分はほとんどが新規証券の発行によるもので、その目的は現金の調達、あるいは購入資産の支払原資調達だった。

 1918年初めから20年末にかけての使用資本増加額3億1600万ドルに対して、設備投資と非連結子会社への投資は合計2億8000万ドルだった。運転資本[注2]は著しく増加しており、その大半を占める在庫は4700万ドルから1億6500万ドルへと膨れ上がっていた。

 1918年、19年、20年と拡大期が続いた後、21年と22年は事業が縮小した。22年の末には銀行からの借り入れはすべて返済を終え、在庫や工場の価値は低めに評価した。すべてが平常に戻った時には、年間に75万台の乗用車とトラックを生産する能力があったが、22年の販売台数は45万7000台にとどまった。

飛躍への準備
1923~25年

 1923年、自動車業界は全体として生産量を拡大し始めた。だが、25年までは生産キャパシティの大規模な拡大は行われなかった。それというのも、すでにデュラントとラスコブによって生産量をかなりの程度増やせる準備ができていたのである。

 25年の販売数は乗用車・トラック合計で83万6000台と、22年の45万7000台を83%も上回っていたが、23年から25年までの設備投資額は合計で6000万ドルにも満たず、他方で減価償却額は5000万ドルに迫っていた。

 種々のコントロールが効を奏したため、販売が拡大したにもかかわらず、在庫は23年初めの1億1700万ドルから25年末には1億1200万ドルへと500万ドルほど抑制できた。同じ期間に正味運転資本は5500万ドル(44%)増加し、売上高は6億9800万ドルから7億3500万ドルへ、純利益は7200万ドルから1億1600万ドルへとそれぞれ増加している。

 このように、より多くの台数をより効率的に生産できるようになったため、1923年から25年にかけての合計純利益は2億4000万ドルに達した。このうち1億1200万ドルを普通株式の保有者に、2200万ドルを優先株式の保有者にそれぞれ還元した。合計1億3400万ドル、純利益の56%が配当に充てられたことになる。

新たな拡大期
1926~29年

 1925年までに売上げが急拡大したため、追加の設備投資が求められるようになった。1926年から29年までGMは再び事業を拡大していった。拡大路線を取るという判断が正しかったことは、すぐに証明された。26年の販売台数は過去最高だった25年の実績をさらに50%近くも更新して、123万5000台に達したのである(乗用車・トラック合計)。この時期には初めて、拡大のための資金を利益、減価償却引当額、株式の新規発行のみで手当てできるようになった。

 この4年間を総括すると、非連結子会社と自動車以外の事業部への投資が1億2100万ドル、設備投資が3億2500万ドルそれぞれ増加している。後者のなかには、1926年に買収したフィッシャー・ボディへの投資が含まれている。

 拡大路線に乗って、生産能力はさまざまな方面へと拡充された。自動車分野では主に〈シボレー〉の生産可能台数を上乗せし、〈シボレー〉は4年間で販売台数を2倍近くに伸ばしている。新車種の〈ポンティアック〉の生産能力も充実が図られた。自動車組み立て可能台数が増えたことを受けて、アクセサリー事業部の供給能力も拡大した。

 部品についても同様である。販売流通業務のテコ入れにも乗り出して、海外でも組立工場や倉庫を増設した。最終消費者に製品が届きやすくしたのである。25年にはイギリスの小規模な自動車会社ボクスホールを買収し、29年にはより規模の大きなアダムオペル(ドイツ)に80%ほど出資した。自動車以外の分野では、フリジデアー事業部などの拡大を進めた。さらに航空事業、ディーゼル事業などへも投資した。

 要約すると、1926年1月1日から29年12月31日までに工場の価値総額は2億7800万ドルから6億1000万ドルへと2倍以上に増え、非連結子会社と自動車以外の事業部への投資は8700万ドルから2億700万ドルへとおよそ2.5倍になった。総資産は7億400万ドルから13億ドルへとアップしている。販売数は120万台から190万台へ、売上高は11億ドルから15億ドルへそれぞれ伸びている。

 財務コントロールと業務コントロールがうまく機能したため、事実上この拡大をすべて利益と減価償却によって支え、なおかつ純利益の3分の2近くを配当として株主に還元できた。社外からの資金調達としては、1927年に配当率7%の優先株式2500万ドル相当を発行したのみである。他はすべて留保利益を用いている。

 もっとも、26年にフィッシャー・ボディの残余資産すべてをGMの普通株式66万4720株で買い取った際には、その一部に充当するために63万8401株を新規発行している。純利益は26年1億8600万ドル、28年2億7600万ドル――それまでの過去最高――、29年2億4800万ドルへと推移している。

大恐慌と復興
1930年代

 1930年代は大恐慌と共に幕を開けた。中盤は安定・拡大の時期だったが、末期は第2次世界大戦参戦の前夜という時代状況が、自動車業界にも影を差した。

 大恐慌は1930年から34年まで続き、GMの業績も縮小した。大恐慌は1920年から21年の不況よりも深刻だったが、以前とは異なって、業績が悪化しても大きな混乱は生じなかった。配当金を減らさざるをえない年もあったが、損失を計上することも、配当を見合わせることもなかった。1931、32の両年は、業績が良好だった年度の内部留保を取り崩して、利益を上回る配当金を出した。

 1930年代を通しては、純利益の91%に当たる額を配当に充てた。景気全般が低迷していたため、リターンを得られそうな投資案件は少なく、余剰資金が生じていたのである。

 経済状態が最も深刻だったのは、言うまでもなく株価暴落後の3年間である。繰り返しになるが、1929年から32年にかけて、北米の自動車生産台数は560万から実に140万へと75%も激減した。売上高への打撃はなおのこと厳しく、小売ベースで51億ドルから11億ドルへと78%の減少幅を記録した。

 そのようななかでも、GMは3年間の合計で2億4800万ドルの利益を計上し、それに9500万ドルを加えて配当額を3億4300万ドルとしている。配当が利益を上回る逆転現象が起きたにもかかわらず、正味運転資本の減少は2600万ドルにとどまり、現金預金と短期証券に至っては4500万ドルも増えている(+36%)。資産の流動性がきわめて高くなっていたのだ。

 この時期、多くの耐久消費財メーカーが倒産したり、その瀬戸際に追い詰められたりしていたというのに、GMが際立った業績を上げられたのはなぜだろうか。けっして、鋭い先見性を持ち合わせていたわけではない。GMも社会全般の例に漏れず、大恐慌の到来を予測してはいなかった。

 おそらく、これまで述べてきたことから導かれる結論は、GMが環境の変化に迅速に対応する力を身につけていた、ということだろう。これこそが、財務コントロールと業務コントロールがもたらした最大の成果であると考えられる。

 売上高が減少を始めるとすぐに対策を打ったため、その減少幅に合わせて在庫を抑制し、コストを制御したため、損失を計上せずに済んだ。売上高は1929年から32年にかけて、15億400万ドルから4億3200万ドルへと71%も減少しているが、在庫も60%、額にして1億1300万ドル抑制されている。売上高が10億ドル以上も下がったことを受けて、32年の純利益は2億4800万ドルにとどまったが、6300万ドルを配当に充て、16万5000ドルを社内に留保することができた。

 繰り返しになるが、30年代初めには多大な設備投資は必要なかった。30年から34年までの5年間で設備投資は総額8100万ドル、32年に至ってはわずか500万ドルである。加えてこの間に、余剰の工場や生産設備を一部操業休止にして、後に必要が生じた際に一部工場の操業を再開した。

 1935年を迎えると、北米の工場出荷台数は150万超にまで回復した。33年以降3年間で3倍近くに伸び、それまで最高だった29年の80%にまで戻したのである。36年には29年の水準に迫り、37年には192万8000台を出荷して新たな記録を打ち立てた。他方、37年は純利益が1億9600万ドルと伸び悩み、29年の2億4800万ドル、36年の2億3800万ドルに及ばなかった。

 37年の利益が低迷したのは、年初に6週間のストライキが敢行されたこと、コストが上昇したことによる。この年の平均時間給は対前年度比で20%増、29年との比較では28%もアップしていた。

 それでも設備投資負担が軽かったため、配当額は36年に記録的な2億200万ドル、37年にも1億7000万ドルに達した。この両年は、純利益の85%を配当に回している。

 このように出荷と生産が急激に回復したことで、生産施設が再び不足するようになった。そこで前述のように、操業停止していた工場設備の一部――最新の製品や技術に対応できるもの――を再稼働させた。新設の必要も生じていた。35年には生産量が急拡大したため、国内外の工場設備を対象に大規模な調査を行い、将来の予想販売台数を賄えるかどうかを検討した。

 このようにしてGMは、1935年に製造施設を再編、整備、拡張するための支出を決定した。その総額は5000万ドルを超えた。

 生産と販売は急速に拡大を続けていた。そこで私たちは再び調査を行って、生産能力が将来にわたる需要を満たすことができるかどうか確かめた。生産能力に影響を及ぼす3つの要因には、とりわけ大きな注意を払った。

①労働時間短縮への流れ
②業務効率が低下する可能性
③労使問題を引き金に生産が一時的にストップするおそれ

 ②と③は1937年に現実のものとなった。

 これらの要因によって、シボレー事業部では生産能力が不足していた。過去3年間にわたって需要を満たすことができなかったのである(1935、36の両年、〈シボレー〉ブランドの乗用車・トラックは100万台超が生産されている)。シボレー事業部ほど深刻ではないにせよ、他にも生産能力が足りなくなっていた事業部があった。

 加えて、ゼネラル・エンジン・グループと家電製品グループで新製品の開発が進められていたため、それを生かすためには生産能力の拡充が欠かせなかった。このような不足は一部の事業部のみの問題ではなかった。事業部ごとにばらつきが生じていたわけではなく、全社的に生産能力を抜本的に増強することが求められていた。

 そこで、設備の近代化や更改のための支出に加えて、新設備のために6000万ドルを超える支出を決めた。拡大プランは1938年に完了する。

 景気は、1937年下期から38年上期にかけて著しく失速し、その後比較的速い回復を見せ始めた。アメリカ国内での自動車消費も、景気全般とほぼ同じ傾向をたどった。39年上期は景気が足踏みしたが、下期に入ると回復を始め、ヨーロッパが戦争状態に突入すると、回復の足取りはさらに速まった。

 1930年代全体を振り返ってみると、GMは新規設備に総額3億4600万ドルを投じている。この時期、投資に消極的なのが全般的な空気だったことを考えると高額に思えるが、GMの20年代に比べると金額は縮小している。減価償却引当は、投資総額を4600万ドルほど上回っていた。

 株式配当は11億9100万ドル(利益の91%)に上っている(20年代は7億9700万ドルであった)が、流動比率は低下していない。正味運転資本は1930年1月1日から39年12月31日までの間に2億4800万ドルから4億3400万ドルに、現金預金と短期証券も1億2700万ドルから2億9000万ドルに増えている。使用資本も9億5400万ドルから10億6600万ドルへとわずかに増加した。

第2次世界大戦
1940~45年

 続く6年間、GMは膨大な需要に直面した。おそらくこう述べて誤りではないだろう――GMは、アメリカ企業の大多数と同じように見事にその需要に応えた。

 第2次世界大戦の火ぶたが切られると、GMはすかさずアメリカ最大の自動車メーカーから、アメリカ最大の軍需企業へと転換した。そして大戦の終結と共に、速やかに平時の生産体制に戻った。このようなことが可能だったのは、効果的なマネジメント手法と充実したプランニングの力による。

 実は1940年には、乗用車とトラックの生産台数は32%ほど伸びている。軍事計画によって、購買力が全般的に刺激されたためである。

 この年GMの軍需生産は7500万ドルのみであったが――ちなみに民需生産は17億ドルに達している――、年末に近づくにつれて受注が急増して、41年1月末にはアメリカ政府と連合国政府からの軍需受注は6億8300万ドルとなっていた。41年の軍需生産は4億ドルを超え(民需生産は20億ドル)、真珠湾攻撃の頃には日産200万ドルに達していた。

 アメリカが参戦した後は、GMも全社を挙げての量産体制で総力戦を支えた。1942年、軍需生産は19億ドルに伸び、民需生産は3億5200万ドルに減少した。43年にはエンジニアリングと生産の機能をフル回転させて、37億ドルの軍需生産をこなした。

 そして44年、さらにわずかに伸びて戦時中のピーク、38億ドルに達する。金額ベースでは3%の伸びだが、量では15%増えている。これは、受注量の拡大に伴って値下げを敢行したためである。

 1945年5月8日、ヨーロッパで連合国軍が勝利を決めると、軍需注文がキャンセルされたため部分的に平時体制への復旧を行い、対日勝利後は全面的な復旧を図った。したがって、45年には軍需生産は2億5000万ドルに減り、民需生産は5億7900万ドルへと心持ち上向いた。

 GMの軍需生産は累計で125億ドルに迫った。これだけの膨大な量を生産するために、私たちは既存設備をできる限り利用し、改造し、場合によっては拡張も行った。そのコストは40年から44年までで1億3000万ドルを超えた。加えて、6億5000万ドル相当の政府施設でも生産に従事した。

 第2次世界大戦中は、利益、配当金ともに十分とはいえなかった。売上高は39年が13億7700万ドル、44年が42億6200万ドルと伸びを見せたが、利益は増えていない。

 戦争当初、利益制限法が設けられるかなり以前から、GMでは軍需ビジネスについて税引前利益率を抑制していた。1941年には市場競争はいまだ機能していたが、それでも当社は軍需ビジネスの利益率を民需の半分に抑えたのである。可能な限り固定価格で受注をして、コストが低ければ価格も引き下げることにしていた。

 このため40年から45年にかけて、17億6690万ドルの売上げに対して利益は10億7000万ドル、そのうちの8億1800万ドルを配当金として株主に支払った。配当は、40年と41年には額面10ドルの株式に対して3.75ドルを支払ったが、42、43年は2ドルに下がり、44、45年は3ドルだった。

 1940年から44年にかけて、純利益の77%を株主に還元したが、戦時中の物資欠乏と施策の優先順位によって、生産設備を通常のスケジュールで更改することができなかったため、流動比率は著しく高まった。この間の設備投資額は2億2200万ドルで、減価償却額に満たない。

 このようにして、1940年1月1日から1944年12月31日にかけて正味運転資本は4億3400万ドルから9億300万ドルへ、現金預金と短期証券は2億9000万ドルから5億9700万ドルへそれぞれ増えている。45年には設備投資を1億1400万ドルという記録的な水準に引き上げた。この年、正味運転資本は7億7500万ドルへ、現金預金と短期証券は3億7800万ドルへと減少している。

 この45年をもって、財務面から見たGMの一時代が終わった。この時代、景気循環と投資判断が時として別個に、多くの場合互いに関係しながら、財務に影響を及ぼした。続いて新しい時代、長期的な拡大の時代が始まり、今日まで続くことになる。話を前に進めるに先立って、いくつかの点を補足しておきたい。

 財務上の戦略的課題は、事業を遂行する際にさまざまな要素をどのように最適化するかという点にある。これに関しては、裁量や主観的判断の余地が大きい。だが一般論として、借り入れを行うと株主へとリターンを増やせるが、リスクも高まるといえるだろう。

 おそらくだれもが同意してくれると思うが、デュラントとラスコブは共に、旺盛な支出意欲を持ち、借り入れを行うことへの抵抗感が薄かった。デュラントはこうした考え方をGMに過度に持ち込み、1918年から20年にかけて事業拡大路線をひた走った。その後6年間はさらなる拡大は必要なかったほどである。

 それでも、仮に経営コントロールや財務コントロールが充実していたなら、あのような拡大路線によっても危機は生まれなかったのではないだろうか。1920年の不況によって、デュラントは苦境に陥ったが、それは明らかに負債を抱えていたからである。

 GMは1921年から46年まで長期負債を避けた。私自身は借り入れを好まない。おそらく個人的な経験の影響だろう。とはいえこの間、GMが「借り入れをしない」という明確な方針を持っていたわけではない。事実は、借り入れに頼る必要がなかったということである。

 26年までは支出そのものが少なく、以後29年までは、適切な配当を支払いながら、なおかつ利益を再投資に回すことができた。言葉を換えれば、事業が好調であったため手元資金だけで成長できたのである。

 ただし例外として、20年代に銀行から短期の借り入れは行っている。30年代は景気後退期であったため、そもそも借り入れをするかどうかといった問題は生じなかった。

 大戦中は政府を通して10億ドルの融資枠設定を受け、受取勘定や在庫の支払いに充てることとしたが、実際の借入額はけっして多くはなかった。最高でも1億ドルほどで、期間も1年未満であった。

 戦後は、流動比率が高かったにもかかわらず、財務面でのさまざまな課題に再び直面することとなった。多額の設備投資を行うために、株式発行と借り入れの両方によって追加資本を手に入れる必要が生まれた。

第2次世界大戦後
1946~63年

 1946年から63年までの17年間で、設備投資は総額70億ドルを突破した。これは46年時点での工場価値と比べて実に7倍近くに当たる。とはいえ、インフレが昂進したこともあって、生産機械や建設のコストが膨れ上がり、戦後支出の相当部分を占めたため、物理的な規模が7倍になったわけではない。この17年間に正味運転資本は7億7500万ドルから35億2800万ドルへと27億5300万ドルほど増大した。

 工場投資の61%、43億ドルは減価償却引当金を充当した。残りは必然的に、利益を再投資するか新たに資本を調達する――あるいは両者を併用する――ことになった。同じ期間の利益は総額125億ドルに上り、その36%に当たる45億ドルが内部に留保された。事業上の必要から、以前よりも大きな比率となっている。

 それでもなお、事業拡大計画を遂行するために、20年代初頭以降――ごく小規模な事例を除けば――初めて市場から資本を調達することになった。調達総額は8億4650万ドル。うち2億2500万ドルを1962年末までに返済した。

 3億5000万ドル相当の普通株式も発行して、1955年から62年までの社員福利厚生プログラムに充てることとした。利益の再投資と株式の新規発行によって、使用資本は13億5100万ドルから68億5100万ドルへと伸びている。

戦後計画を発表

 戦後の成長に向けては、戦争が終わるはるか以前から壮大なプランを立てていた。1943年には私自身が全米製造業協会で、「挑戦」(ザ・チャレンジ)という講演を行い、プランについて述べている。講演のなかで私が主張したのは、戦争が終われば堰を切ったように需要が噴出すると考えられるため、大胆なプランを立てておかなければならない、ということである。

 戦後不況を予測する多くのエコノミストに反論すると共に、私にとってこれは単なる論争の対象ではなく、いかに投資判断を下すかという問題だと言い添えた。事は緊急を要するというのが社内の認識だった。

 ひとたび戦争が終わったら、できる限り速やかに平時の体制に復旧して、消費者のニーズに応え、平時の雇用を創出し、株主への義務を果たさなければならなかった。そのすべてがチャンスに満ちていた。

 そこでGM社内では、長期的な需要見通しを立て始めていた。景気全般の動向、消費者需要、社の生産能力、財務力などをにらみながら、5年から10年後の事業を予測したのである。

 私はこの調査を基に戦後プランを発表して、5億ドルの支出が必要であると訴えた。5億ドルという数字が大きな波紋を呼び、多数の意見が押し寄せた。5億ドルという規模は、20年代、あるいは30年代の設備投資をはるかに凌ぎ、1944年末時点の工場設備を75%も上回る額だったのである。

 GMは大戦終結の2年前にすでに、乗用車とトラックの大量生産を再開できる日のために準備を始めていた。各事業部に関して詳しい拡大プランを設け、戦前から取引のあった数千ものサプライヤーや請負業者――その多くからは軍需生産に際しても協力を得た――と新たな関係を築けるように、そのための構想も温めていた。

 たとえば、戦前のサプライヤーに対して可能な限り、「戦争の行方次第ではあるが、平時の製品をできるだけ早く発注したい」という旨を伝えるようにしていた。こうすれば、サプライヤーの側でも戦後ヘ向けたプランを用意しておき、復旧への時間を短縮することができる。

 戦後プランを作成した段階では、すべてのコストを利益、減価償却費、その他の余剰金でカバーできると想定していた。1941年から43年にかけて、生産設備を戦時対応に改めた際には、平時対応に戻すために7600万ドルの準備金を積み立てた。この金額でコストをカバーできるとの見通しからだった。

 その他にも、新しい工場や設備を購入できる日のために、多大な流動資産を蓄えてあった。このため、1944年末には9億300万ドルの正味運転資本があり、そのうち5億9700万ドルが現金預金と短期証券で占められていたのである。

 戦後の事業拡大コストについての事前予想は、建設コストや資本財価格が上昇したことを考慮すると、驚くほど正確だった。復旧コスト8300万ドルに対して、準備金は7600万ドルほど積み立ててあった。1947年には第1次の拡大プログラムが完了したのだが、45年からそれまでの設備投資総額は5億8800万ドルだった。比較までに記すと、予想額は5億ドルである。

 他方、運転資本に関しては予想額が低すぎた。運転資本のニーズが膨らんだのは、事業を拡大しただけでなく、急激なインフレが生じたためである。第2次大戦前の1935年から39年にかけては、年末の運転資本は平均で3億6600万ドル、在庫は同2億2700万ドルだった。戦後の5年間(1946~50年)は、それぞれ10億9900万ドル、7億2800万ドルへと増えている。

 45年が終わろうとする頃には、工場の大多数は全米自動車労働組合(UAW)のストライキによって閉鎖状態に追い込まれ、全社の現金預金と短期証券は2億1900万ドル減少して3億7800万ドルとなった。

 ストライキは1946年3月13日に終息したが、この時には流動資産はいっそう目減りしていた。一部の工場ではその後も60日ほど労使対立が尾を引いた。他産業のストライキの余波で資材が不足したため、社内の労使問題が解決した後も生産量が伸び悩んだのである。

 この結果、戦争直後の復興期には、需要が異常なほど過熱していたにもかかわらず、十分な利益を上げることはできなかった。1946年の利益はわずか8750万ドル。GMはこれに2140万ドルを上乗せした額を配当金として支払った。

 ストライキが終息する以前から、GMは追加資本が必要になりそうだと判断して、資金調達方法に関する調査・研究を進めていた。1946年中盤には、年利回り2.5%の20年債と30年債を発行して、保険会社8社から合計で1億2500万ドルを調達した。

 他の資金調達方法についても検討はしたが、私募債を発行して、長期資金を持った機関投資家から資金を調達するのが、最も低コストで迅速だと判断した。私募発行の交渉は速やかにまとまった。公募とは違って手続き期間が短く、有価証券報告書などを提出する必要もなかった。

 1億2500万ドルは1946年8月1日に入金され、GMは資本ニーズの高まりにきわめて柔軟に応えられるようになった。財務方針委員会はそれでもなお長期資金が必要であると考えていた。

 そこで、8月5日に1億2500万ドルの優先株式を発行する方針を固め、引受企業との条件交渉をアルバート・ブラッドレーに任せた。委員会は、さらに別の方法による資金調達をも念頭に置いていた。一案として、任意償還の優先株式を発行するのがよいだろうとの結論に達した。

 ところが現実には、かなりの好条件のものを除くと、市場はこちらが期待したほどの反応を見せず、発行規模を1億ドルに減らすこととなった。額面3.75ドルの優先株式を100万株発行したのである。売り出し日は11月27日。GMは割引額と引受手数料を差し引いた9800万ドルを手にした。このようにして、ほぼ20年ぶりの株式公募を成功のうちに終えることができた。

 戦後の復興期には経営資源が逼迫していた。事実、1946年には2億2300万ドルの資本を新たに調達したにもかかわらず、正味運転資本が700万ドル、現金預金と短期証券が4200万ドル、それぞれ減少している。仮に市場から資本調達をしていなかったなら、正味運転資本の減少幅は2億300万ドルに達していたことになる。

 さて、資本の増強を終え、後は以前から描いていた事業拡大の青写真を基に前進あるのみだった。

 1948年には北米の工場出荷台数が214万6000と、戦前のピークである1941年の実績に迫った。純利益も4億4000万ドルに伸び、1947年の2億8800万ドル、46年のわずか8800万ドルを上回った。49年には、景気低迷を跳ね返して過去最高の販売台数を達成し、利益率もアップしたため、純利益は6億5600万ドルに達した。

 この時期、在庫回転率も目覚ましく向上している。売上高が10億ドル増えたにもかかわらず、在庫は6500万ドル減少したのだ。事業拡大プログラムが完了していたため、設備投資は比較的少なく、48年、49年合計で2億7300万ドルと減価償却引当をわずかに6400万ドル上回るだけであった。

 こうして資金ポジションが急速に改善したため、49年12月に1億2500万ドルの優先株式を償還して、負債を一掃することにした。流動資産も増やし、多額の配当金を支払うことができた。

戦争は満たされない需要の蓄積を生む

 次に事業が飛躍的に拡大したのは、朝鮮戦争が契機だった。その時すでにGMは、戦争中に満たされなかった需要が戦後になって爆発することを知っていた。

 そこで自動車市場の将来性に十分に思いをめぐらせたうえで、生産能力を大幅に拡張する必要があると判断し、新工場建設に踏み切った。この工場は当初は軍需生産に用いるが、いずれ民需に対応することを想定していた。

 事実GMは、生産工場を拡大していった。1950年から53年までの4年間に、新規の工場と生産設備に合計12億7900万ドルを投じ、そのうちおよそ3分の1が軍需生産に振り向けられた。ただし、超過利潤税を課せられたこと、軍需生産に関しては通常よりも利益率を抑えていたことなどが重なって、利益は減少した。

 以上をまとめると、4年間でGMは純利益の61%に相当する16億ドルを配当に充て、8億7100万ドルを事業に再投資することができた。この再投資額と減価償却費5億6300万ドルの合計は、設備投資総額12億7900万ドルをわずか1億5500万ドル上回るにすぎなかった。

 言い換えれば、他の支出、たとえば鋼鉄のサプライヤーへの前払金、軍需生産向けの機械整備などには1億5500万ドルしか充てられなかったのである。物価の上昇も資本構造に影響を及ぼした。1949年12月31日から53年12月31日にかけて、売上高の76%アップを受けて資本需要が増えたが、正味運転資本はわずかながら減少している。

 1954年の初め、すでに内部資本が逼迫していたが、GMは将来に向けて設備投資を行うと発表した。2年間で10億ドルを投じるという内容で、自動車市場の拡大に応えられるように生産設備を拡充すること、既存設備を近代化することを目的としていた。

 その他にも、オートマチック・トランスミッション、パワーステアリング、パワーブレーキ、V8エンジンなどを生産するために、多額の設備投資を行った。

 以上のように大規模な設備投資を進めたこと、物価が上昇していたことによって、新たな資本調達が避けられなくなっていた。利益の大部分を配当に充てるためには、それが不可欠だった。1953年を終えようとする頃、財務方針委員会はこの問題を検討して、社債を発行すべきだと判断した。

 しかし1946年とは異なって、保険会社などの機関投資家は余剰資金を持たなかった。それどころか、しばらく先まで資金供給の予定が埋まっていた。そこで私たちは公開市場に活路を求め、1953年12月に利回り3.25%、25年もの社債を3億ドル発行して、引受手数料その他の差し引き後で2億9850万ドルを手にした。社債発行は今回も大成功に終わった。

 それでも資金需要は十分には満たされていなかった。55年1月に入ると、工場投資計画が10億ドルから15億ドルへと積み増しされ、後にさらに20億ドルへと拡大された。将来の資金需要を分析した結果、再度資本調達を行う必要があると判断されたのである。

 1955年2月、438万683株を額面5ドルで新規発行して、普通株式の保有者に20株に1株を割り当てることにした。応募価格は75ドル、申込み期限日には価格は96.875ドルにまで跳ね上がっていた。引受シンジケート団は330社で構成されていたが、引受比率はわずか12.8%にとどまった。

 この調達によって、引受手数料その他を差し引いた3億2500万ドルがGMに入金された。過去最高(当時)の普通株式発行は華々しい成功のうちに幕を閉じた。多くの専門家による事前予測――「規模が大きすぎてリスクが高い」――を跳ねのけ、GMによる市場評価が正しかったことが立証されたのである。

 株式と社債の発行に支えられて、GMは事業拡大をプランどおりに進めながら、多額の配当金によって株主に報いることができた。

 1954年から56年にかけての事業拡大期に、新規の工場設備に22億5300万ドルを投じて、その価値総額を29億1200万ドルから50億7300万ドルへと74%も増やしている。減価償却引当は8億7400万ドル、配当金は16億2000万ドル(利益の57%)、事業への再投資額は12億2200万ドルとなっている。未曾有の設備投資を行ったにも関わらず、正味運転資本は5億1000万ドルほど増加し、現金預金と短期証券の合計額は――納税用のものを除いても――3億6700万ドルから6億7200万ドルへとほぼ倍増している。流動資産は57年にはさらに増える。

 この年、事業拡大プランの完了に伴って設備投資が急減した一方、減価償却引当が伸び続けていたのである。

 大規模な事業拡大を終えて、GMの財務体質はかつてないほど強化されていた。1957年から62年にかけては、2度の不況(58年と61年)に見舞われはしたが、62年には創業以来最高の売上高と利益を達成することができた。

 この時期の出来事を振り返ると、GMが財務面でどれほど高い健全性を身につけていたか、改めて感銘を受けずにはいられない。景気が後退した58年には、GMがアメリカで生産した乗用車・トラックの売上高は対前年度比22%の減少となったが、その急激な影響に耐えて、利益は大幅な減少を免れた。

 この年の1株当たり利益は2.22ドルと、前年度の2.99ドルに比して27%減にとどまった。このような成果を上げられたのは、チャンスを逃さない効果的な財務コントロール制度を有していたからである。それは何年もの歳月をかけて築き上げたものだった。

 58年から62年の設備投資は、海外プロジェクト分も含めて23億ドルに上った。54年から56年にかけての事業拡大期に匹敵する金額だったが、国内分は減価償却費で賄うことができた。ドイツでは借り入れに依存した。この4年間の合計配当額は33億ドル、利益の69%に当たる。正味運転資本は17億ドルに増えた。

 戦後を概観すると、GMは株主に十分な利益をもたらしたといえるだろう。工場設備は合計で12倍以上に増え――1946年1月1日の10億1200万ドルから62年12月31日には71億8700万ドルに増え――、その分を利益と減価償却引当金でカバーしたうえに、純利益の64%に当たる79億5100万ドルを株主に還元したのである。

 1945年と62年を比べると、1株当たりの配当額(株式分割を調整後)は50から3ドルへ、株価は12.58ドルから58.13ドルへと伸びている。

合理性の追求こそ成長の基礎

 GMの財務について述べるとは、成長の歴史をたどることである。製品・サービス、人材、物理資産、財務資産――すべてが増加した。

 ゼネラルモーターズ・コーポレーションが1917年8月1日に現在の社名に変わってから(それまでは「ゼネラルモーターズ・カンパニー」が正式社名であった)62年12月31日までに、社員数は2万5000人から60万人超となり、また3000人に満たなかった株主は100万人超にまで増加した。

 乗用車とトラックの販売台数も伸びている。1918年と62年を比べると北米産が20万5000台から449万1000台へ増え、62年には海外生産分も合計74万7000台を売り上げている。

 売上額の伸長は2億7000万ドルから146億ドルへとさらに著しく伸長している。総資産は1億3400万ドルから92億ドルへと増えている。

 アメリカ経済においてGMがどれほど大きな位置を占めていたか、おわかりいただけただろう。

 もとより事業体の価値は、売上高や資産の成長のみでなく、むしろROE(株主資本利益率)によって評価されるべきである。それというのも、リスクにさらされるのは株主の資本である。ビジネスを私企業の論理で進めることによってまず利益を得るのは株主だからである。

 これまでのデータに示されているように、GMは株主に対して胸を張ってよいだろう。社員、顧客、ディーラー、サプライヤー、地域社会への義務も十分に果たしてきた。

 財務面での成長に関して私自身はどのように考えているか。その哲学は1938年のアニュアル・リポートにも示されている。

「経済上の必要から、また発展のプロセスに従って、各業界の規模は拡大の一途をたどってきました。それというのも、製品やサービスをより便利に、より安く提供するためにたゆまぬ努力を重ねるため、市場が絶えず拡大していくのです。

 このような発展に、大量生産の分野で業務プロセスの統合が進んでいるという事実が影響を及ぼしています。発展はどういった効果を生み出すかといいますと、必要な資本が常に増え続けていくということです」

 GMの財務もこうした道筋を経て成長を遂げてきた。総使用資本は1917年にはおよそ1億ドルだったが、今日では69億ドル前後にまで増えている。

 これを主に利益の再投資によって実現し、過度の負債は避けてきた。資本が68億ドル増加しているが、このうち8億ドルが資本市場から調達されている。6億ドルは株式の新規発行によって調達されたもので、うち2億5000万ドルを他社の買収に、3億5000万ドルを社員の福利厚生プログラムにそれぞれ用いた。

 残り54億ドル近くは利益の再投資によるものだが、一部の成長企業とは違って、配当金を削ることなく再投資を進めてきた。1917年からの45年間で配当総額は108億ドルに迫っている。利益の67%を株主に還元したことになる。

 資本がこれほど増加したのは、GMが発展を遂げてきたからこそである。競争を基本とした経済の下で、GMは合理的に行動してきた。

 私がこれまでGMのマネジメント手法を詳しく紹介してきたのも、この事実を伝えたかったからである。こうしてGMは優れた企業へと成長してきたのである。


※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。

『【新訳】GMとともに』

[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。

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【注】
1)使用資本とは、株式や社債の保有者から投資を受けた総額を指す。普通株式・優先株式の発行、借り入れ、払い込み剰余金(資本剰余金)、利益剰余金などを源泉とし、主に運転資本と固定資本に投下する。
2)正味運転資本とは、流動資産(現金預金、短期証券、売掛金、棚卸資産)から流動負債(買掛金、税金、その他)を差し引いたものである。

有賀裕子/訳
DHBR 2002年11月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.

 

アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ 元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。