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猜疑心というセーフティ・ネット
信頼とはいかにもろいものか、2001年9月11日、あの忌まわしい数分間で、全米中の人々が思い知らされた。あんなにあっけなくテロの攻撃を受け、数々の人命が奪われるのを目の当たりにした時、社会の安全システムへの信頼は大きく揺らいだ。
そのわずか数カ月後、エンロン破綻という驚くべきニュースが伝えられるところとなり、またもや人々は「信頼とは何か」、いぶかるようになった。そう、既存の仕組みや前提に疑念を抱かずにはいられなくなったのである。
これら2つの危機はまったく異質のものだが、どちらも「過信」という行為に警鐘を鳴らしている点で一致している。古来より「信じる者は救われる」と言われてきたが、いまやあまりにリスキーで、世間知らずともいえよう。
ほとんどのビジネス書が「信頼こそ企業の財産である」と長らく推奨してきたなかで、「疑う」という新しいスタイルは異端の思想である。
それでも、リーダーシップ、企業変革、戦略と、テーマが何であれ、あらゆるビジネス書が「信じることがいかに有益か」、軽々しく述べている。実際のところ、これらの主張の論拠は何とも安直である。
たとえば、組織内の信頼度が高ければ、社員たちは自らの努力は必ず報われると信じ、仕事に打ち込むことができる。リーダーたちも信頼が醸成されれば、情報操作に腐心する必要がなくなり、ポイントに絞って虚心坦懐に話し合えるようになる。つまり信頼は、組織を一つにまとめる強力な接着剤であるというのだ。
信頼があるからこそ、我々は生活を有意義かつ健康的に楽しめる。それくらい信頼は大きな役割を果たしている。また、他人を信じられなければ──双方に利益がもたらされるにもかかわらず──取引は決裂し、多くのチャンスをみすみす失う羽目となる。職場内のかけ引きに気を揉むあまり、肝心要の意思決定が歪められ、会社全体の損失につながることも起こりうる。
同僚にしろ、ライバル会社の社員にしろ、他人を信頼して協力することなく、むしろ疑り避けるようになれば、競争は不毛なゼロサム・ゲームと化す。これでは、エスカレートの一途をたどる軍拡競争と変わらない。