-
Xでシェア
-
Facebookでシェア
-
LINEでシェア
-
LinkedInでシェア
-
記事をクリップ
-
記事を印刷
ジェンダーアイデンティティにおいて、私は自分がストレートであることをつい忘れてしまう。普段それを意識することがない。週末に何をして過ごしたかを同僚に話す時も、デスクの周りに家族の写真を飾る時も、それが誰かを不快にさせるかもしれないとか、ジョークのネタにされて傷つくかもしれないといった心配をすることがない。
誰かと話す時も、自分がその相手に好意を抱いているという誤解を与えるのではないかと不安に思うことなく、何も気にせず話すことができる。私たちの文化は、私のようなストレートの人間にとっては、ほとんど何も考えずに自分自身でいられるようにできている。
しかし、たとえばゲイの同僚はそうではない。彼らにとっては、週末どう過ごしたかという雑談や、デスク周りにどんな写真を飾るかといった単純なことが大きなストレスとなりうるのである。
ある調査では、LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニング)の従業員の46%が、職場で自分の性的指向を隠していることがわかった。その理由は、仕事を失うかもしれないという恐れから、ステレオタイプな偏見にさらされかねないことへの恐れまで、さまざまである。私のようなストレートと違い、非ストレートの人は、自分の性的指向を意識しないまま一日を終えることができない。
自分は何者かというアイデンティティの一部を忘れることができるという特権は、ストレートの人間にとっては何ら特別なことではない。個人のアイデンティティを構成する要素のうち、危険や差別、愚かなユーモアから身を守るために注意を払う必要のないものがある。たとえば米国では、白人、キリスト教徒、健常者、ストレート、英語話者というようなアイデンティティはことさら意識する必要がない。それは普通のあり方とされているからだ。
それらのアイデンティティがもたらす特権がありふれたものであるのは、多数派に属し、その社会の規範にかなっていて、周囲の人々に溶け込んでいるからであり、それゆえ意識に上ることがないからである。
アイデンティティで変わる行動の評価
米国に住むほぼすべての人が、何らかの「当たり前の特権」を持っている。そのことを非難されているように感じることもあるが、それ自体は恥ずべきことでも、否定すべきことでもない。ただ、そのような特権は、実際には行動を起こすチャンスなのだ。