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苦難の道
ゼネラルモーターズ(以下GM)は経営のあり方を見直し、市場での戦い方も決めた。次はそれらを実行に移すのが当然の流れだろう。
だが、そうはならなかった。新体制は、本格的に船出しようとした矢先に2年半にもわたって、自ら定めた原則を守れなかったばかりか、踏みにじってしまったのである。
この間、歴史は私たちの望むとおりには流れてくれなかった。これから書く内容は、GMの社史における影の部分である。
しかし、再生への道のりを振り返るうえでは、けっしてここから目を逸らすことはできない。辛い経験は多くの場合、将来への糧となる。幸いにも、1921年から翌年にかけて大きな試練を与えられたからこそ、GMは後に飛躍を果たすことができたのである。
試練の源は、研究部門と生産部門、経営トップと事業部トップ、それぞれの足並みが乱れたことにある。
火種はチャールズ F. ケッタリングが開発した「革命的な新技術」、すなわち空冷式エンジンにあった。社長のピエール S. デュポンは、従来の水冷式に代えて、空冷式を次世代の主力モデルに搭載したいと唱えていた。
空冷式エンジンの開発
いきさつは1918年にさかのぼる。この年、ケッタリングがデイトンの研究所で空冷式エンジンの実験に取りかかった。空冷式エンジンそのものは斬新なものではなく、初期のタイプはアメリカでもすでに〈フランクリン〉その他の車種に搭載されていた。
空冷式の特徴は、シリンダーにフィンを取りつけて、そこに送風することで放熱を促す点にある。〈フランクリン〉は鋳鉄のフィンを用いていたが、ケッタリングは、熱伝導率で10倍勝る銅でフィンをつくって、シリンダーに溶接しようと考えた。このため、エンジンだけでなく冶金の技術も求められていた。
開発プロセスでは、鋳鉄と銅を膨張、収縮させるうえで数多くの難問が持ち上がったが、ケッタリングはすでに解決策を試みていた。しかし言うまでもなく、いかに量産するかは後の課題として残されたままであった。
空冷式エンジンには将来性が感じられた。水冷式と違ってラジエーターや配管などのパーツが不要で、重量、コストの削減にもつながるうえ、性能アップが期待できた。計画どおりに完成すれば、まさに業界に大旋風を巻き起こすはずであった。
だが、新しいエンジンを実用化にまで持っていくのは気の遠くなるほど長い道のりである。航空機やロケットのエンジンを実用化するのにどれだけの歳月と労力が費やされたか、思い起こしていただきたい。
自動車の水冷式エンジンも、19世紀末から業界を挙げて力を注いだ結果、1921年にようやくある程度の効率が実現していたのである。