苦難の道

 ゼネラルモーターズ(以下GM)は経営のあり方を見直し、市場での戦い方も決めた。次はそれらを実行に移すのが当然の流れだろう。

 だが、そうはならなかった。新体制は、本格的に船出しようとした矢先に2年半にもわたって、自ら定めた原則を守れなかったばかりか、踏みにじってしまったのである。

 この間、歴史は私たちの望むとおりには流れてくれなかった。これから書く内容は、GMの社史における影の部分である。

 しかし、再生への道のりを振り返るうえでは、けっしてここから目を逸らすことはできない。辛い経験は多くの場合、将来への糧となる。幸いにも、1921年から翌年にかけて大きな試練を与えられたからこそ、GMは後に飛躍を果たすことができたのである。

 試練の源は、研究部門と生産部門、経営トップと事業部トップ、それぞれの足並みが乱れたことにある。

 火種はチャールズ F. ケッタリングが開発した「革命的な新技術」、すなわち空冷式エンジンにあった。社長のピエール S. デュポンは、従来の水冷式に代えて、空冷式を次世代の主力モデルに搭載したいと唱えていた。

空冷式エンジンの開発

 いきさつは1918年にさかのぼる。この年、ケッタリングがデイトンの研究所で空冷式エンジンの実験に取りかかった。空冷式エンジンそのものは斬新なものではなく、初期のタイプはアメリカでもすでに〈フランクリン〉その他の車種に搭載されていた。

 空冷式の特徴は、シリンダーにフィンを取りつけて、そこに送風することで放熱を促す点にある。〈フランクリン〉は鋳鉄のフィンを用いていたが、ケッタリングは、熱伝導率で10倍勝る銅でフィンをつくって、シリンダーに溶接しようと考えた。このため、エンジンだけでなく冶金の技術も求められていた。

 開発プロセスでは、鋳鉄と銅を膨張、収縮させるうえで数多くの難問が持ち上がったが、ケッタリングはすでに解決策を試みていた。しかし言うまでもなく、いかに量産するかは後の課題として残されたままであった。

 空冷式エンジンには将来性が感じられた。水冷式と違ってラジエーターや配管などのパーツが不要で、重量、コストの削減にもつながるうえ、性能アップが期待できた。計画どおりに完成すれば、まさに業界に大旋風を巻き起こすはずであった。

 だが、新しいエンジンを実用化にまで持っていくのは気の遠くなるほど長い道のりである。航空機やロケットのエンジンを実用化するのにどれだけの歳月と労力が費やされたか、思い起こしていただきたい。

 自動車の水冷式エンジンも、19世紀末から業界を挙げて力を注いだ結果、1921年にようやくある程度の効率が実現していたのである。

 だがケッタリングは、考案まもない空冷式エンジンの成功を露ほども疑っていなかった。彼はこの時すでに、エンジニアリングの分野で名だたる権威となっていた。最先端のセルフ・スターター、イグニッションを開発し、無人航空機の実験にまで着手していたのである。

 ケッタリングは1919年8月7日の財務委員会で、空冷式エンジンと燃料に関する研究成果を披露した(これらの研究プロジェクトはデイトン・メタル・プロダクツ・カンパニーとデイトン・ライト・エアプレーン・カンパニーで進められていた。燃料分野の研究は、後にテトラエチル鉛として結実する)。

 この準備には私も力を貸している。ケッタリングは私にとって、1916年、彼のデイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニーがユナイテッド・モーターズ傘下に入ってからの僚友で、実務のうえでもつながりがあった。

 財務委員会の前日、私たちはハロルド E. タルボット(デイトン・メタル・プロダクツ・カンパニー社長:当時)、J. エイモリー・ハスケル(経営委員会のメンバー)、ジョン J. ラスコブ(財務委員会の議長)を含めてミーティングを持った。

 デイトン・グループ(ドメスティック・エンジニアリング・カンパニー、デイトン・メタル・プロダクツ・カンパニー、デイトン・ライト・エアプレーン・カンパニー)の資産を、GMが買い取る方向で調整を進めたのである。

 この件については8月26日の財務委員会で結論が出された。席上、冒頭でデュラントとデュポンから説明があった。

「チャールズ F. ケッタリング氏はかけがえのない人物である。ぜひGMの業務に専念してもらいたい。デトロイトにできる新しい研究所を取り仕切ってほしいのである。……ハスケル、スローン、クライスラーらも同じ意見だ。このポジションにふさわしい人物はケッタリング氏をおいては考えられない」

 こうしてGMはケッタリングとデイトン・グループを迎え、空冷式エンジンのプロジェクトがスタートした。GMの歴史が大きく動いたのである。

 その後1年以上が経過し、社内外の情勢は大きく変わった。デュポンが社長に就任した直後の1920年12月2日、ケッタリングはこう報告している。「〈フォード〉クラスに対応した小型の空冷式エンジンが出来あがりました。後は生産を待つばかりです」

 試作車数台によるテストを行い、結果が良好であれば、翌1921年には1500ないし2000台を市場に投入できるというのである。

 5日後、デイトンへの視察団が組まれた。一行はデュポン、ラスコブ、ハスケル、K. W. ジンマーシード(シボレーのゼネラル・マネジャー)、C. D. ハートマンJr.(財務委員会の秘書役)、そして私である。

 往復の列車のなかでも、数多くのテーマと共に空冷式エンジンが話題に上った。

 慎重に話し合った結果、デイトンで開発中の次世代車は、まず適正な台数を厳しい条件の下でテストし、その後に商用化の可否を判断することになった。十分な性能と安全性が実証されれば、〈シボレー490〉の次期モデルに採用することに決まった。

〈シボレー490〉は低価格セグメントの主力車種で、“対フォード戦略の切り札”との期待を担っていた。そのモデルに新型エンジンを搭載するかどうかは、GMが大規模な低価格市場にどこまで切り込めるかを左右する大きな問題であった。

 1921年1月19日、デュラントが退陣した直後の経営委員会は、〈シボレー490〉の水冷式エンジンと空冷式エンジンを比較検討すべきだとの意見で一致している。問題の重要性から考えて、当然の判断だろう。以下の点でもコンセンサスが得られた。

・1921年秋からのモデル・イヤーに向けては、現行〈シボレー490〉に大きな改造を加えるのは現実的ではない。

・1922年8月からの生産年度に空冷式エンジンを投入するかどうかは、今後の開発状況を見極めてから判断する。

 こうして私たちは(「私たち」としたのは、経営委員会は全員で判断を下すのを常としていたからである)、旧来の水冷式〈シボレー490〉については新たな開発を見合わせ、空冷式エンジンについては状況を見守ることとした。

 2週間後、委員会はさらに踏み込んだ判断をしている。

「空冷式エンジンは低価格セグメント向けに開発し、量産段階に入った後はシボレー事業部の管轄とする。この決定をケッタリングとジンマーシードに伝えることとする」

 これは命令に近い重みを持っていた。〈シボレー〉に関する限り、賽は投げられたのである。

 次の2週間で、〈オークランド〉の次期6気筒エンジンを空冷式にするという案が出され、了承された。ただし、委員の一部から「大きな懸念」が投げかけられ、諮問委員会(当時のトップは私である)に報告書の提出を求めることになった。

 記憶にある限り、4人の経営委員会メンバーのなかで「大きな懸念」を抱いていたのは主に私である。この点については追って詳しく述べることとする。経営委員会で大きな発言力を持つデュポンは、空冷式エンジンに熱い期待を寄せ、開発を強く後押ししていた。

 1週間後の1921年2月23日、私が欠席した経営委員会で、早くも新しい決定がなされた。

「検討・開発中の4気筒空冷式モデルを低価格セグメントに投入する。6気筒モデルは900ドルないし1000ドル前後の価格とする」(議事録による)

 ケッタリングには「6気筒空冷式エンジンの開発を進めるように。ただし、量産に入るのは、試作車によるテストで有効性が実証されてからとする」との指示が出された。

 ケッタリングはC. S. モット(自動車事業の統括責任者)、ハリー・バセット(ビュイック事業部の責任者)と共に臨席しており、次のように述べた。

・4気筒、6気筒共に、1921年7月1日までにはテストの結果が判明する見込みである。

・4気筒は8月に生産準備に着手できる。スケジュールどおりに進めば、1922年1月1日には販売を開始できるはずである。

 ジンマーシードも呼び入れられ、シボレー事業部の立場を述べた。

 4気筒空冷式モデルの生産準備は、ケッタリングの案よりも1年遅い1922年8月を目途に始めたいということであった。すでに〈シボレー490〉の既存エンジンを改良し、それに合わせてボディの設計も改めたというのである。

 こうして、経営委員会とシボレー事業部の間に方針のズレがあることが浮き彫りになった。

事業部と研究所の対立

 1921年5月にはケッタリングが車両テストを開始し、商用化は4気筒、6気筒いずれが先でも対応できると報告してきた。

 6月7日、経営委員会はデイトンのGMリサーチ・コーポレーション(以下GMリサーチ、後のリサーチ・ラボラトリーズ)に小規模な生産チーム――いわばパイロット工場である――を設けることを決める。一日の生産台数は25台が上限とされた。

 この頃、ジンマーシードが空冷式プロジェクトに積極的でないことが明らかになり、それが本社と事業部の関係に影を落とすようになった。この状態はしばらく続くことになる。

 ビュイック事業部のみは業績が好調であったため、従来どおり高い自立性を与え、自主的な判断を認めるべきだとされたが、他の事業部については、事業部制の原則を曲げて、当面は本社によるコントロールを強めることとなった。

 このような傾向は、経営トップがシボレー、オークランド両事業部に空冷式モデルの導入を命じたことに端的に表れている。

 エンジンと車両設計は事業部にとって最も大きな問題である。それを事業部に代わって経営委員会が決めることになったのである。経営委員会は大きな権限を与えられ、それを行使していった。

 空冷式モデルについて適切な判断を下す以外にも、なすべきことがあった。本来プロジェクトの推進役となるべき各事業部から、積極的な取り組みを引き出す必要があったのである。本社が大きな権限をふるったのは、やむをえないことだっただろう。

 それというのも、それまでは一度として、GMリサーチと事業部が重要な問題について足並みを揃えなければならないことなどなかったのである。そのための地ならしもできていなかった。

 設計・開発はケッタリング率いるデイトンの研究グループ、量産は事業部がそれぞれ行うことになっていたため、全体として責任の所在があいまいになっていた。ジンマーシードは、生産の主体が研究グループと事業部のどちらであるか分担を明確にしてほしいと訴えた。

 空冷式エンジンは、それ自体の意義は別にして、マネジメントの課題をあぶり出す役目を果たした。

 シボレー事業部は設計への不信を捨て切れず、デイトンの研究グループでは、事業部が自分たちの設計内容を変えてしまうのではないかと疑心暗鬼になっていた。

 事業部のエンジニアやゼネラル・マネジャーは、本拠地とデイトンの間を行き来していた。

 そうした交流を通してケッタリングは、ジョージ H. ハナム(〈オークランド〉のゼネラル・マネジャー)が次世代車に大きな期待を寄せていることを感じ取り、年末までには〈オークランド〉に6気筒モデルを投入できると自信を深めていった。

 1921年7月、私はパリを訪れたが、中旬にアメリカに戻ると、26日、経営委員会の他の3人と共に再びデイトンに赴き、ケッタリング、モットとミーティングを持った。

 ケッタリングは、以前にも増して次世代車への思い入れを強めていた。「自動車産業始まって以来の画期的な発明になりますよ!」

 この言葉に、デュポンは大船に乗った気持ちにさせられたようだ。ケッタリングはこの席でも、シボレー、オークランド両事業部の姿勢に温度差があることに触れ、自然と、より熱心なオークランド事業部との連携を強めたいと考えるようになっていた。

 議事録にはこうある。

「6気筒空冷式のプロジェクトをさらにいっそう前進させることになった。4気筒については、6気筒の経験を生かせるように、タイミングを遅らせることとする」

 この裏には、シボレー事業部のジンマーシードも、6気筒モデルの威力を目の当たりにすれば、4気筒モデルの投入に熱心になるだろう、との見通しがあった。モットがこう述べている。

「いずれにしても、〈シボレー490〉は在庫が15万台ありますから、それを売り切ることが先決でしょう」

 だが、〈シボレー〉についても、いつまでも結論を先延ばしにしておくわけにはいかなかった。数週間後の経営委員会で、デュポンが製品概況を振り返り、製品プログラムの輪郭をはっきりさせたいと述べた。

 そのなかではまず、〈オークランド〉の6気筒空冷式プロジェクトを、商用化を前提に推し進めていくとの方針が確認された。〈シボレー〉については、次のような提案が出された。

「注文と在庫の処理を終え次第、〈490〉の生産は中止する。後継車種の量産に関して、ただちに判断を下す必要がある」

 口頭で説明が加えられた。

「4気筒空冷式を〈シボレー〉の標準エンジンとしたい。やむをえない事情が生じない限り、この方針を貫くこととする」

 生産開始のターゲットは1922年5月1日に据えたい、ということであった。経営委員会はこれらの提案を了承した。

空冷車のテストに失敗

 1921年秋、デイトンでは引き続き空冷式エンジンの開発が進められていた。これと並行して次世代車種の生産に向けて新工場の建設、既存工場の転用などが検討され、マーケティング・プランなどが練られた。

〈オークランド〉の試作車がデイトンから送られてくる日が近づくにつれ、ニューヨーク、そしてデトロイトで期待が高まっていった。デュポンがケッタリングに書き送っている。

「いよいよ生産プランを本格的に練ることができるのですね!まるで少年のように、はやる気持ちを抑えることができません。待ち焦がれたサーカスのポスターを眺めながら、想像を巡らせるのです。『どんなアトラクションがあるのだろう』『どれが一番素晴らしいだろう』と」

 10月20日、経営委員会で〈オークランド〉のモデルチェンジに向けたスケジュールが具体的に決められた。

・水冷式エンジン搭載の現行モデルは1921年12月1日をもって生産を打ち切る。

・デイトンで開発中の空冷式モデルを1922年1月のニューヨーク・モーターショーで公開する。

・新モデルは2月以降、オークランド事業部(ミシガン州ポンティアック)で本格生産に入る。台数は一日100台とする。

 あとはスケジュールに沿って進めるだけだと考えられていた。

 空冷式モデルの第1号車が、フィールド・テストのためにオークランド事業部へ届けられた。デイトンの外で本格的なテストが行われるのは、これが初めてであった。

 静かに時が流れ、やがて衝撃が走った。テスト用車両は商用化には耐えられない、との結論が下されたのだ。

 11月8日付でハナムがデュポンに状況を説明している。

「商用化に漕ぎつけるまでにはかなりの手直しを要しますので、スケジュールどおりに生産に入るのは不可能と申し上げざるをえません。それどころか、テストをすべてクリアして生産へのゴーサインを出せるようになるまでには、少なくとも6カ月はかかる見通しです。

 12月15日前後には現行モデルの出荷を終える予定ですので、その後当面は、水冷式の新モデルで凌ぎたいと思います」

 先に経営委員会が定めたスケジュールは、1カ月も経ずして見直しを迫られることになった。それと共に、〈オークランド〉、さらにはGMの製品ライン全体の長期的な展望も、大きく揺らいだ。空冷式モデルの先行きに関して、ニューヨークには失望感と危機感が、デトロイト、フリント、ポンティアックには悲壮感が漂った。

 GMリサーチと事業部は、テストの結果をめぐって激しく議論を戦わせた。ケッタリングの設計チームと事業部のゼネラル・マネジャーやエンジニアの間には大きな溝があった。ケッタリングは深い疲労感と挫折感にさいなまれるようになっていった。

 11月30日、経営委員会は〈オークランド〉空冷式モデルのスケジュールを白紙に戻し、ケッタリングには信頼の念を伝える手紙を書き送った。

 危機はひとまず避けられた。デュポンは空冷式エンジンへの期待を取り戻し、ケッタリングは意欲を新たにした。こうして焦点は〈オークランド〉から〈シボレー〉に移っていった。

先進的技術開発はどう行うべきか

 12月15日、経営委員会は「〈シボレー〉4気筒空冷式モデルを、1922年9月1日までに生産ラインに乗せる」という方針を強く打ち出した。

 さらに、事業部と研究グループの溝を埋め、4気筒、6気筒の開発でケッタリングと協力させるために、〈シボレー〉〈オークランド〉〈ビュイック〉のチーフエンジニアであるO. E. ハント、B. ジェローム、E. A. ドウォーターズをデイトンに送り込み、日々の性能テストの結果を、社長と事業部長宛てに提出させることにした。

 1921年の年の瀬を迎えても、GMの製品ラインアップは従来とほとんど変わっていなかった。

 私は気がかりでならず、この問題に大きな注意を払い、経営委員会でも努めて取り上げるようにした。空冷式と水冷式のどちらが技術的に優れているかに関しては、中立的な立場を取っていた。エンジニアリング上の問題は専門家に任せておけばよい。

 あえて考えを述べるとすれば、ケッタリングは時代を先取りした素晴らしいアイデアを生み出し、事業部は開発、生産の面で優れた見識を持っていたといえるだろう。専門家が互いに異なった見解を持っていたとしても、必ずしもいずれかが間違っていることにはならない。

 しかし、GMが経営方針を踏み外していたことは間違いない。本来の針路を逸れて、特定のモデルに肩入れしていたのである。新型車を生産・販売するのが事業部であるにもかかわらず、経営トップは研究グループを強く支持し、その一方で、既存の水冷式モデルが時代遅れになりつつあったにもかかわらず、事態を放置していた。

 12月も残すところわずかとなったある日、私は心の整理を図るためにペンを取った。新型〈オークランド〉のテスト失敗と空冷式モデルが引き起こした数多くの問題を振り返り、ピエール S. デュポンと話し合う準備をしたかった。デイトンでのプロジェクトに関しては、こう記した。

 空冷式の開発では、大きな前進がないままことのほか長い時間が流れてしまった。その非が当事者すべてにあることは疑いない。

 ケッタリングは、空冷式モデルについて全社の理解を得なければならないと感じているが、現実には理解が十分ではなく、その事実を私たちはないがしろにしてきた。

 ケッタリングないしは第三者が空冷式モデルの性能を実証していたら、あるいは生産を他に委ねていたら、プロジェクトははるかにスピーディに進んでいただろう。過ちは、ケッタリングにすべてを任せ切りにして、その複雑な立場や心情への理解を欠いたことにある。

 GMはもとより、業界全体のためにも、エンジニアリングを発展させるのは望ましいことだろう。そのためには、当社の並みのエンジニアではなく、ケッタリングのような才能が求められる。どの分野でも、時代の先を歩こうとすると、未来を見通すことのできない人々から、疑いやあざけりの視線を向けられるものだ。

 だからこそ、先進的なエンジニアリング手法は、机上の理論としてでなく、目に見える成果として示すべきなのである。ケッタリングが、十分に機が熟すのを待ってから空冷式モデルを公表していれば、〈オークランド〉のトラブルは生じず、改良の必要性が指摘されることもなかっただろう。私は心配でならない。

 今回の出来事によって、優れたアイデアの芽が摘まれるようなことが続きはしないだろうか。GMを発展させていくうえで、新しいアイデアはなくてはならないものである。そして偉大なアイデアは、ケッタリングのような傑出した才能にしか生み出せないのである。

 このようにして状況を振り返ったことがターニング・ポイントとなって、以後私は、2つの方針を掲げるようになった。

・空冷式モデルの実用化に向けて、引き続きデュポンとケッタリングの志を後押しする。

・水冷式モデルの改良を進めやすいよう、各事業部をサポートする。

 ジンマーシードと私は一時期、ミューア式という蒸気冷却システムを実用化する可能性も探ったが、結局生産には至らなかった。

 デュポンは空冷式に一心に期待を寄せ続けていたが、私が他の選択肢を視野に入れることをとがめ立てはしなかった。私たちは、やや距離を置きながらそれぞれのスタンスを保っていたのである。だが、経営を預かる2人が異なった考えを持っているのは好ましいことではなく、いずれ改めなければならなかった。

 その後実に16カ月にわたって、GMは空冷式エンジンに翻弄されることになる。その間、新しい製品ラインの展望が開けないため、上層部から張り詰めた空気が消えることはなかった。

外部から技術協力を求める

 1922年に入ると、〈オークランド〉よりも〈シボレー〉に、次世代車実用化の重圧がかかるようになっていった。私は安全路線を取り始めた。仮に空冷式プロジェクトが失敗に終わったとしても、GMを破滅させるわけにはいかなかった。経営トップと事業部の溝も埋めなければならなかった。

 1月26日、出張でデトロイトに滞在した際に、モット、バセット、ジンマーシードに集まってもらうことにした。スタットラー・ホテルの私の部屋で話し合った結果、以下のように合意した。

・〈シボレー〉の空冷式プロジェクトは計画どおり進めるが、慎重さを崩してはならない。

 空冷式4気筒モデルは、計画では「実用化テストの結果が良好であれば、1922年9月1日からシボレー事業部で生産に入る」とされていた。期日は7カ月後に迫っていたが、シボレー事業部はいまだテスト用車両を受け取っていなかった。

 そこで「全社としてもシボレー事業部としても、計画どおりに空冷モデルを生産開始できると断言はできないが、テストを行った後の4月1日に、確かな見通しを得られるだろう」と判断した。

・万一の場合に備えた安全策として、水冷式モデルの改良も進めておく。

 宙に浮いた〈オークランド〉については、2月21日の経営委員会で私から6気筒空冷式モデルのスケジュールを延期することを報告し、了承された。〈オークランド〉に関する決定事項をまとめておきたい。

①最新水冷式モデルの生産を1923年6月30日まで継続する。

②その間(1年半ほど)は空冷式の導入は見合わせ、新モデルはすべて既存の設計をベースとする。

③仮に損失を出すような事態に立ち至った場合には、その時点で最良の措置を取る。

 当時、全社横断的なエンジニアリング部門は、実質的にはデイトンのGMリサーチのみであったが、空冷式プロジェクトで忙殺されていたため、既存モデルのバージョンアップは事業部が中心となって進めざるをえなかった。事業部はいずれも、既存車種をモデルチェンジするために、優秀なエンジニアを求めていた。

 こうした要請は、とりわけシボレー、オークランド、オールズで強かった。各事業部は、基幹業務であるエンジニアリング、製造、販売に加えて、改良やモデルチェンジまで行わなければならなかったのである。

 従来からのこうした状況を踏まえて、当時、全社的なエンジニアリング部門を設けようとの動きが生まれていた。GMリサーチは、ケッタリングの稀有な才能を拠り所として、壮大なアイデアを育てる組織だったため、日々の事業ニーズには応えられなかった。

 そこで私は、このギャップを解消するために、各事業部のエンジニアリングに社外からの協力を得てはどうかと考え、3月14日に経営委員会に提案、了承を得た(これはGMにとってまったく新しい試みだったが、私自身はそのことに気づいていなかった)。

 それですべてが解決したわけではないが――問題の本質が理解され解決するまでには何年も要する――、問題が軽減されたことは確かだろう。

 当時私は、社外のヘンリー・クレーンという人物にアドバイスを求めるようになっていた。クレーンは後に社長の技術顧問として、エンジニアリングの発展、とりわけ〈ポンティアック〉の設計に大きく貢献することになる。

 1921年10月には、ジンマーシードの引きでO. E. ハントが〈シボレー〉のチーフ・エンジニアとなっていたが、知り合って日が浅いこともあり、この時はまだ私はハントの真価に気づかずにいた。

 水冷式エンジンを改良しながら空冷式の開発を進めるのは容易ではなく、ほどなく経営上層部のメンバーが入れ替わることになった。

 2月1日に、モットの推薦によってウィリアム S. ニュードセン(フォードの元生産担当マネジャー)が諮問委員会のメンバーに加わり、モットに生産に関して助言するようになった。

 ニュードセンはデイトンを訪れ、3月11日に空冷式エンジンについて報告を行うと共に、「ぜひすぐに生産を始めるべきだ」と訴えた。ただし、その真意は「数台をテスト用につくって、マーケティング・技術の両面から検証すべきだ」ということであった。

 3月22日の経営委員会では、デュポンの発案でジンマーシードを社長の補佐役に据え、ニュードセンをシボレー事業部のバイス・プレジデントとすることが決まった。

 デュポンはまた、シボレーのゼネラル・マネジャーを自ら務めたいと述べ、了承された。こうして彼は、会長、社長、シボレー事業部ゼネラル・マネジャーを兼任することになった。

銅冷車生産に踏み切る

 4月7日、デュポンの意思で空冷式エンジンを「銅冷式エンジン」と呼び改めることとなった。デュポンは旧来の空冷式との違いを強調したかったようだが、ケッタリングはその後も「空冷式」と呼び続けた。

 この頃、〈シボレー〉銅冷式4気筒の生産に向けて、機械類の準備が始められた。

 予定では9月15日から生産ラインを日産10台で稼働させ、年末までに日産50台に増やすことになっていた。カナダのGMにも、同じ車種を生産するように指令が出されていた。

 だが、春が過ぎ夏が訪れても、開発面で大きな進展はなく、デイトンで依然としてテストが繰り返されていた。

 春の販売状況からは、この年(1922年)は売れ行きが大きく回復するだろうと予想された。〈シボレー490〉は技術的にはさほど進んだ車種ではなかったが、人気を取り戻していた。

 5月、デトロイトでのミーティングでモットが、銅冷式に万一のことが起きた場合を考え、予防策を提案した。

 次のモデル・イヤーで売れ筋製品を絶やさないために、従来の〈シボレー490〉に銅冷式モデル向けのボディを組み合わせて販売するという案である。出席者(デュポン、モット、ニュードセン、コリン・キャンベル〈シボレー事業部のセールス・マネジャー〉、私) のうち私が賛成した。

 キャンベルは反対した。冬に〈490〉を投入して、翌春に銅冷式に切り替えたのでは、ディーラーに大きな負担を強いることになるというのだ。私は予防策を通したいとの思いからこう発言した。

「銅冷式の本格生産は、1923年4月1日以降に持ち越すべきでしょう。テストが成功して実用化に耐えられるとなったら、生産量を増やしていき、8月1日から〈シボレー〉を銅冷式一本に絞ればよい。万一、テストの結果が芳しくないようであれば、〈490〉の生産を続ければよいのです」

 意見の開きが鮮明になっただけで、結論は出なかった。

 予防線を張ろうとの動きが表面化したため、やむをえないことだが、社内の不協和音が大きくなった。ケッタリングは依然として、事業部の動きが鈍いと苛立ちを感じていたようである。

 銅冷式モデルに関しては、〈オークランド〉よりも〈シボレー〉が数カ月ほど先行していたが、シボレー事業部の進め方にケッタリングは首を傾げていた。5月には、業務を進めるうえで最も呼吸が合うのは〈オールズ〉のチーフ・エンジニア、ロバート・ジャックだと述べるようになった。

 デュポンはケッタリングの意見を入れて、6月、シボレー事業部の銅冷式プロジェクトをテコ入れすると表明した。あわせて、冬に銅冷式〈シボレー〉の生産に入ることも提案している。

 銅冷式モデル向けの車台とボディは秋には完成の運びであったため、後はエンジンを搭載するのみだというのが、その理由である。

 9月に入っても銅冷式の生産は始まっていなかったが、強気の見通しが改められることはなかった。

〈シボレー〉については、1923年3月までに月産で水冷式を3万台、銅冷式を1万2000台に乗せるという計画だった。7月あるいは遅くとも10月には、水冷式の生産キャパシティをすべて銅冷式に切り替えることが目標とされた。

 11月、ケッタリングから懸念の声が上がった。オールズ、オークランド両事業部が銅冷式のプロジェクトに熱意を持っていない、というのである。

 私はデュポンに不安を漏らした。3つの大きな事業部で新しい設計を取り入れるのはリスクが高いのではないか――。デュポンは、すでに数カ月前に経営委員会で決まったことだと私を諭した。「あとはタイミングだけだ。いつの時点で水冷式と蒸気冷却式を中止するかだけだろう」

 とはいえ、〈シボレー〉に関しては結論を急がず、1923年5月1日まで待つことを確約してくれた。デュポンは、〈オールズ〉についても、いずれ100%銅冷式にしたいと語った。

 デュポンと私はそれぞれの意見を11月16日の経営委員会で述べ、折衷案が採用された。

 銅冷式プロジェクトについて下記のとおりとする。

①オールズ事業部は1923年8月1日から、6気筒銅冷式モデルを市場に投入する。水冷式エンジンの研究開発は、本日をもって全面的に中止する。

②シボレー事業部は銅冷式モデルの開発を慎重に進める。新製品開発につきものの不安定要因を、技術、採算両面から見極め、全社のリスクを最小限に抑えるように努力すること。

③オークランド事業部については、銅冷式モデルの扱いを後日定めることとする。いずれにせよ、一定数以上のテスト車両で技術面、採算面の検証を終えた後でなければ、量産には入らない。

 こうして、1922年末には、〈オールズ〉は銅冷式のみとする、〈シボレー〉は水冷式、銅冷式を併存させる、〈オークランド〉は銅冷式プロジェクトの成果に応じて決める、というのが製品方針として掲げられたのである。

 12月、ニュードセンの指揮によって銅冷式〈シボレー〉250台の生産が開始された。前年に続いて、新型車種の技術的枠組みが定まらないまま年を越すこととなった。

 1923年1月、ニューヨーク・モーターショーで銅冷式〈シボレー〉の車台とエンジンが公開され、大きな反響を呼んだ。価格は水冷式(〈シボレー・スーペリア〉)よりも200ドルほど高く設定されていた。

 銅冷式〈シボレー〉は計画では2月に1000台を生産し、10月までに月産5万台に増やすことになっていた。水冷式に関しては、生産中止のタイミングを計るのみだと考えられていた。ところが、生産が暗礁に乗り上げ、2月に量産体制に入るという計画が狂ってしまう。

自動車ブームの到来

 続く3月から5月にかけて、GMは2つの大きな出来事に見舞われた。

 第1に、市場が空前の広がりを見せ、業界全体の年間販売数が乗用車・トラック合計で初めて400万台を突破する見込みとなった。

 第2に、生産ラインでの打ち重なるトラブルによって、銅冷式〈シボレー〉の量産が遅々として進まなかった。事業部で製品テストを続けていたが、次々と問題点が明るみに出ていた。商用化は時期尚早で、さらなる改善が求められていたのである。

 対処の仕方はおのずと見えていた。それまでどおり、水冷式の〈シボレー・スーペリア〉を生産・販売し続けるほかなかったのである。この車種は性能面で特に優れていたわけではないが、長年にわたって改良が重ねられ、十分な実用性を持つようになっていた。1923年春には販売数も過去最高を記録した。

 自動車市場の活況からは、新しい時代の幕開けが感じられた。そこで、何としても製品計画を固め、稀に見る大きな市場チャンスを逃さないようにしなければならなかった。

社長に就任する

 折しも5月20日、デュポンが社長を退き、後任として私を取締役会に推薦した。銅冷式エンジンについての私たちの考えはその後も平行線であったが、最終判断は新たに最高責任者となった私に委ねられることとなった。

 オールズ事業部は、既定の方針に従って、水冷式モデルの研究開発はいっさい行わなくなっていた。水冷式の在庫を一掃するために、採算ラインを50ドル下回る価格で販売しながら、8月1日に予定される銅冷式6気筒モデルの生産開始を待っていた。

 しかし、銅冷式〈シボレー〉の開発・生産がひどく停滞していたため、先行きには明らかに暗雲が漂っていた。

 社長となった私は、当然の成り行きとして経営委員会の議長も務めることになった。委員会は新たにフレッド・フィッシャー(フィッシャー・ボディのトップ)とモットをメンバーに迎えた。この体制になってから初めての経営委員会(1923年5月18日)の席上、私は〈オールズ〉の問題を取り上げた。まず現状を説明してから、考えを述べた。

「銅冷式〈シボレー〉はいまだ量産の目途が立っておらず、エンジニアリングと製造の難しさをことあるごとに印象づけている。このままでは、〈オールズ〉の銅冷式モデルもスケジュールが遅れることは確実だろう。そうなれば、〈オールズ〉の工場、さらには海外を含む組織全体に大きな動揺が広がるに違いない」

 ケッタリング、ニュードセン、ハントも交えて話し合い、3人のエンジニアに銅冷式6気筒エンジンの現状を調査・報告してもらうことにした。

 3人とはA. L. キャッシュ(GMのエンジン生産部門ノースウェイのゼネラル・マネジャー)、ハント(〈シボレー〉のチーフ・エンジニア)、ドウォーターズ(〈ビュイック〉のチーフ・エンジニア)である。

 5月28日、デュポン、ハスケル、ラスコブが欠席のまま経営委員会が開かれ、3人のエンジニアから焦点の報告が行われた。その要旨を紹介しておきたい。

 銅冷式6気筒エンジンは、気温15度ないし20度の下で中速走行した後、不正発火を起こす。ウォームアップ時には十分な馬力が出るが、高温下では圧縮が不足し、馬力が衰える。

 この大きな問題点に加え、小さな欠点が多数見られる(要望に応じて別途報告)。結論として、短期間で量産に漕ぎつけるのは不可能であろう。当面は改善を進め、生産ラインに乗せることは見合わせるのが望ましい。

 この報告を受けて経営委員会は、オールズ事業部に、

①銅冷式プロジェクトを中止する。

②銅冷式モデル用の車台に合った水冷式エンジンを開発する。

 の2点を指示した。あわせて、銅冷式に高い将来性を見出していることを改めて表明し、ノースウェイ事業部のキャッシュに6気筒銅冷式エンジンの開発を委ねた。

ケッタリング辞意を表明する

 この時すでに、〈シボレー〉の銅冷式モデルは759台が完成していた。うち239台は工場でスクラップ化された。500台はセールス部門に移され、150台を工場長クラスが使うことになった。ディーラーには300台が卸され、およそ100台が顧客の手に渡っていた。1923年6月、シボレー事業部は銅冷式モデルのリコールを決めた。

 6月26日、ケッタリングから私のもとに書簡が届いた。GMを離れて銅冷式プロジェクトを進める道を模索したい、との内容であった。

 これを記した時点では、ケッタリングは銅冷式〈シボレー〉の生産が棚上げされたことを知らなかったようである。4日後にその事実を知って、文書で辞意を伝えてきた。

 ケッタリングは腹蔵のない人物である。彼と私の交流は40年に及び、その間、いかなる時も率直に胸の内を明かし合った。だが、この時ばかりは互いに身を切られるような思いだった。ケッタリングの伝記(T. A. ボイド著)から一節を引きたい。

「1923年夏に銅冷式〈シボレー〉の開発が棚上げされたことは、ケッタリングの心に言い知れぬ傷を与えた。発明家としての人生で最大の挫折だったのである」

 ケッタリングの苦悩は私にも痛いほど伝わってきた。しかし、私たちは異なった責任を負い、異なった信念を持っていた。互いにその信念を譲ることはできなかった。

 技術的な問題にのみ目を奪われていたのでは、経営の舵取りをしていくことはできない。市場の拡大を目の当たりにしながら、先行きの不透明なプロジェクトのために立ち止まるようなことができるだろうか。そのようなことをしていたら、時代に取り残され、今日のGMはなかったに違いない。

 加えて、銅冷式エンジンが原理的にいかに優れていようとも、私の信念として、事業部の意に反して押しつけるようなことはできなかった(この信念は今日まで変わっていない)。

 銅冷式プロジェクトに関してのみは、残念なことに社内に大きな亀裂が生じていた。片やケッタリングと彼のチーム、デュポン、片や私と事業部。私は何としてもこの亀裂を埋めたいと考えた。

 ケッタリングは純粋な情熱に突き動かされていた。問題は現実との折り合いをどうつけていくかであった。銅冷式モデルは実用化テストを通ることができなかった。それ以前に〈オークランド〉でもつまずいている。

 一流のエンジニアたち――〈ビュイック〉〈シボレー〉〈ノースウェイ〉のチーフ・エンジニアたち――が額を集めたところ、「さらなる改善を要する」との結論に至った。

 シボレー事業部が用意したサンプル車両は、フィールド・テストでさまざまな欠陥が見つかり、引き上げられた。車台、エンジン共に品質が安定しなかったことが、混乱に拍車をかけていた。車台の設計に関しては、GMリサーチのエンジニアよりも事業部のほうが勝っていた。

 以上すべての事実と状況を重く受け止めなければならなかった。

 7月2日に私はケッタリングに返事をしたためた。これまでの経緯について改めて確認をしたうえで、問題の根本的な原因――銅冷式モデルへの信頼が欠けてしまっている――について考えを述べた。

新製品開発の責任を明確にする

 活路を開くために、私は銅冷式エンジンの開発体制を練り直して、社内に提案することにした。

 それまでGMは、根本的な過ちをいくつか犯していた。

 その一つが、責任を分散させたままにしていたことである。経営委員会、事業部、GMリサーチは互いに衝突していただけでなく、内部ですら足並みを揃えられないまま、重要な任務を遂行しようとしていた。

 そこで、大本の原則に立ち返り、責任を一箇所に集めたうえで、プロジェクトを支えていかなければならなかった。私の計画は、新しい事業部を設けて、ケッタリングの指揮の下で作業を進めるというものであった。

 ケッタリング自らチーフ・エンジニアや生産担当者を選んで、製造上の技術的問題を解決する。マーケティングもその組織で実施する。生産台数も需要の大きさに応じて決めればよい。

 このような体制を設ければ、ケッタリングは外からの干渉から自由になり、フリーハンドを得られる。ひいては、銅冷式のアイデア――彼が大きな自信を寄せるアイデア――が正しいことも示せる。

 この案について意見を求めようと、私はフレッド・フィッシャー、スチュワート・モットと膝詰めの話し合いを持った。

 両人の賛成を得ることができたため、7月6日付でデュポンに報告と相談を行った。主な内容をまとめると次のようになる。

①銅冷式モデルの実用化プロジェクトの状況を改善するためには、エンジニアリングの責任を一人に集め、独立の組織を設けてそれに専念させることが必要だ。

②そして、デイトンのリサーチ・プラントの一角に新しい事業部を設置し、生産に携わってもらい、エンジニアリングはケッタリングに一任し、彼の指名したチーフ・エンジニアを通して実務を進めてもらう。

③新しい事業部は4気筒銅冷式モデルを独自ブランドで市場に投入する。一日5~10台のペースで生産を始め、需要を睨みながら拡大していく。

④銅冷式モデルは生産量が少なく、エンジンが特殊である。ボディに付加価値の高い機能をつけて、高めの価格設定をすべきである。

研究開発への貴重な経験

 デュポンは当初、銅冷式プロジェクトを事業部、ひいてはその大規模な販売組織から切り離すというこの案に難色を示したが、最終的には受け入れてくれた。こうして、

・銅冷式プロジェクトを仕切り直して、デイトンでケッタリングの采配の下で進める。

・既存の各事業部は水冷式モデルのみを扱う。

 との方向性が定まった。私は、経営委員会の意見を求めるために7月25日付けで資料を作成した。

 GMが再生への道のりを歩み始めてから2年半。この間、銅冷式プロジェクトをめぐるトラブルによって、〈シボレー〉の販売台数は本来の伸びを見せていない。

 もとより今日まで、一歩一歩を慎重に歩んではきたが、さまざまな原因が重なり合ってこのような現状を生んでしまった。何が真因であるかについては、意見が分かれるところかもしれないが、いずれにせよ事実を動かすことはできない。ここではむしろ、

・全力で新モデルを開発することにいかに大きなメリットがあるか。

・できるだけ早期に完成させることが、どれほど大きな利益につながるか。

 を確認しておきたい。こうしたメリットを最大限に引き出すためには、エンジンが水冷式でも銅冷式でもよいのである。

 なぜなら、銅冷式は水を必要としないという大きな特徴があるものの、その他の点で2つの方式に決定的な違いはないからである。

 この文章を記した大きな目的は、失われた2年半を惜しむことよりもむしろ、前を見据えて歩を進めることである。1921年に定めた製品ポリシーに沿って、水冷式〈シボレー〉のニューモデルを規模の大きな低価格市場に投入しなければならなかったのだ。

 銅冷式モデルは、ついに本格的な実用化を迎えることなく、いつしか消えていった。理由はいまもって定かではない[注]

 経営陣とエンジニアたちは、自動車市場がかつてない活況に沸くなか、水冷式モデルを改良して競争に打ち勝つことに神経を集中していった。 ケッタリングと配下のチームはその後、輝かしい発明を次々と生み出していった。

 テトラエチル鉛、高圧縮エンジン、無害な冷媒(冷却用の熱媒体)、2サイクル・ディーゼルエンジン(これによってGMは、鉄道分野に革命をもたらすことができた)など、数多くの発明、開発、改良を成し遂げていった。

 その成果は自動車だけに留まらず、機関車、航空機、家電製品など私たちの身の回りのいたるところに生かされている。

 銅冷式エンジンはGMに大きな教訓を残した。さまざまな組織が歩調を合わせること、エンジニアリングとその他の機能をうまく連携させることがいかに重要かを教えてくれたのである。①エンジニアリングに関する事業部と本社の役割、②製品の改良と長期的な開発、をそれぞれ峻別しなければならないことも示唆している。

 銅冷式エンジンのプロジェクトは、組織原則、市場戦略を守ることの重要性を強く印象づけている。この一連の経験は、GMの未来を切り開くうえで得がたい糧となった。


※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。

『【新訳】GMとともに』

[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。

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【注】
何年もの後、空冷式エンジンは飛躍的に進歩し、高い実用性を持つようになった。〈シボレー・シェブロレット〉のように、アルミニウム製の空冷式エンジンを搭載した車種も現れた。

有賀裕子/訳
DHBR 2002年6月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.

 

アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。