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製品ポリシーに欠けていた定見
1921年、ゼネラルモーターズ(以下GM)は、経営の立て直しと併せて、市場戦略を定める必要に迫られていた。
1908年~10年、18~20年と2度にわたって急激に事業を拡大したことが響いていたのかもしれないが、いずれにせよ、企業にとって市場戦略は欠かせないものである。
ビジネスの進め方は、産業の現状を深く知ろうとすることでおのずと見えてくるはずである。市場への見方が異なれば、その差は戦略の違いとなって表れてくる。
1921年当時の自動車業界でも、各社はそれぞれ異なった戦略を基に競争していた。ヘンリー・フォードは単一車種〈T型フォード〉を武器に低価格市場を切り開き、10年以上も前からこの大きな市場に君臨していた。
超高級車市場では稀少車種が20ほど競い合い、中価格市場では多数の車種がひしめき合っていた。そうしたなか、GMは明確なポリシーを持っていなかった。
ウィリアム・デュラントの時代に、〈シボレー〉(中価格モデル〈490〉と高価格モデル〈FB〉があり、エンジンタイプが異なっていた)、〈オークランド〉(現ポンティアック)、〈オールズ〉(現オールズモビル)、〈スクリプス‐ブース〉、〈シェリダン〉、〈ビュイック〉、〈キャデラック〉という幅広い製品ラインアップを築いていたが、概してコンセプトはあいまいだった。
例外は〈ビュイック〉と〈キャデラック〉のみである。前者は「中の上」の価格帯で高品質車を大量に販売していた。
後者は、規模の利益を追求しながらどこまでも品質を高めていこうと、たゆまぬ努力を続けていた。実際、この2つのブランドはそれぞれの価格帯で長く市場をリードしていた。
しかし、GM全体としては、けっしてポリシーある製品開発をしていたわけではない。低価格市場ではまったく精彩がなく、〈シボレー〉にしても価格、品質共にフォード・モーター・カンパニー(以下フォード)に到底太刀打ちできるレベルではなかった。
1921年初めの時点で、同等のオプションで比べた価格は〈T型フォード〉を300ドルも上回っており、同じ土俵に上ることすらできずにいた。あえて分類すれば、GMは中価格以上の市場に参入していたが、それは意図した結果ではなかった。
当時、フォードが台数ベースで市場の50%以上を押さえていたが、そのフォードといかに戦えばよいのか、だれ一人としてアイデアを持っていなかった。
ただ一点注目に値するのは、どの一社として市場全体をカバーしていないなか、GMが最も幅広い製品ラインを擁していたことである。
不合理きわまりないことだが、GMは1921年初めに、7つの製品ラインで合計10車種を製造していた。価格帯は表1「1921年初めの製品ラインと価格帯」のとおりである(ロードスターとセダンの両方を含むデトロイトFOB〈本船渡し価格〉)。