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製品ポリシーに欠けていた定見
1921年、ゼネラルモーターズ(以下GM)は、経営の立て直しと併せて、市場戦略を定める必要に迫られていた。
1908年~10年、18~20年と2度にわたって急激に事業を拡大したことが響いていたのかもしれないが、いずれにせよ、企業にとって市場戦略は欠かせないものである。
ビジネスの進め方は、産業の現状を深く知ろうとすることでおのずと見えてくるはずである。市場への見方が異なれば、その差は戦略の違いとなって表れてくる。
1921年当時の自動車業界でも、各社はそれぞれ異なった戦略を基に競争していた。ヘンリー・フォードは単一車種〈T型フォード〉を武器に低価格市場を切り開き、10年以上も前からこの大きな市場に君臨していた。
超高級車市場では稀少車種が20ほど競い合い、中価格市場では多数の車種がひしめき合っていた。そうしたなか、GMは明確なポリシーを持っていなかった。
ウィリアム・デュラントの時代に、〈シボレー〉(中価格モデル〈490〉と高価格モデル〈FB〉があり、エンジンタイプが異なっていた)、〈オークランド〉(現ポンティアック)、〈オールズ〉(現オールズモビル)、〈スクリプス‐ブース〉、〈シェリダン〉、〈ビュイック〉、〈キャデラック〉という幅広い製品ラインアップを築いていたが、概してコンセプトはあいまいだった。
例外は〈ビュイック〉と〈キャデラック〉のみである。前者は「中の上」の価格帯で高品質車を大量に販売していた。
後者は、規模の利益を追求しながらどこまでも品質を高めていこうと、たゆまぬ努力を続けていた。実際、この2つのブランドはそれぞれの価格帯で長く市場をリードしていた。
しかし、GM全体としては、けっしてポリシーある製品開発をしていたわけではない。低価格市場ではまったく精彩がなく、〈シボレー〉にしても価格、品質共にフォード・モーター・カンパニー(以下フォード)に到底太刀打ちできるレベルではなかった。
1921年初めの時点で、同等のオプションで比べた価格は〈T型フォード〉を300ドルも上回っており、同じ土俵に上ることすらできずにいた。あえて分類すれば、GMは中価格以上の市場に参入していたが、それは意図した結果ではなかった。
当時、フォードが台数ベースで市場の50%以上を押さえていたが、そのフォードといかに戦えばよいのか、だれ一人としてアイデアを持っていなかった。
ただ一点注目に値するのは、どの一社として市場全体をカバーしていないなか、GMが最も幅広い製品ラインを擁していたことである。
不合理きわまりないことだが、GMは1921年初めに、7つの製品ラインで合計10車種を製造していた。価格帯は表1「1921年初めの製品ラインと価格帯」のとおりである(ロードスターとセダンの両方を含むデトロイトFOB〈本船渡し価格〉)。
こうして見てみると、表面的には堂々たる製品ラインと映るかもしれない。1920年の実績では、全社の乗用車販売数は33万1118台でその内訳は、
〈シボレー〉 12万9525台
〈ビュイック〉 11万2208台
その他 8万9385台
であった。
生産台数、売上高共に、GMはフォードに次いで第2位であった。カナダも含めた販売台数は、乗用車とトラック合計で39万3075台である。この年、フォード1社で107万4336台を、業界全体ではおよそ230万台を生産していた。
売上高を比べると、
GM 5億6732万603ドル
フォード 6億4483万550ドル
となっている。
だが実際の競争力を見てみると、数字に表れた以上にフォードに引き離されていた。
規模と成長性のある低価格市場でフォードの足元にも及ばなかったばかりか、中価格市場では無節操にいくつもの車種を投入して、自社製品の間でいわば“つぶし合い”を続けるありさまだったのである。
合理的な製品ポリシーの必要性
このような状態であったから、何としても合理的な製品ポリシーを打ち立てる必要があった。顧客は何を求めているのか。他社はどういった戦略を取ろうとしているのか。テクノロジーと経済状況を考え合わせると、先行きはどうなるのだろうか。そして何より、GMの取るべき針路は何か――。
製品ラインの混乱ぶりは、〈シボレーFB〉〈オークランド〉〈オールズ〉をほぼ同じ価格で売り出していた点に如実に見て取れる。統一的な戦略がないまま、各事業部が独自の考え方で製品と価格を決め、結果として同じ価格帯の車種をいくつも市場に送り出していた。全社の利益に反する状況だった。
〈シェリダン〉と〈スクリプス‐ブース〉などは、私から見れば何の存在意義も持っていなかった。どちらも、独自のエンジンを製造しているわけでもなかった。
〈シェリダン〉はインディアナ州マンシーの工場で細々と組み立てられ、エンジンは4気筒FBを用いていた。
〈スクリプス‐ブース〉はデトロイトで生産され、〈オークランド〉の6気筒エンジンを搭載していたが、このエンジンにさしたるメリットがあったわけではない。
〈シェリダン〉〈スクリプス‐ブース〉共に販売組織も小さく、この2つを合わせたとしても、GM全体にとっては「重荷」以外の何ものでもなかった。
GMはなぜ、そのような製品ラインを抱えていたのだろうか。
スクリプス‐ブースは、1918年にシボレーに付随してGMグループに入ったのだが、生産台数は1919年、20年共に8000前後と少なく、製品ライン全体のなかでは浮き上がっていた。
シェリダンに至っては、なぜGMに組み込まれたのかまったく理解に苦しむ。1920年にシェリダンを買収した時、デュラントには思うところがあったのだろうが、私には推し量ることができない。シェリダンは組織の足腰が弱く、需要が大きいわけでもなかった。これといって存在目的を持っていないように思われた。
〈オークランド〉と〈オールズ〉は、価格帯が重なっていたうえ、日に日に時代遅れになりつつあった。〈オークランド〉については、1921年2月10日、私のオフィスでのミーティングの際に、プラットからこんな話を聞かされた。
「懸命に改良しようと努力してはいるのですが……。生産台数は日によって10台、あるいは50台と変動しています。それというのも、不具合のある製品ばかりが出来てしまい、改善を施さなければならないのです。……何より大きなトラブルの元はエンジンでして……」
私はこう述べた。
「問題はいろいろとあるようだ。エンジンが35から40馬力であるのに、クランクシャフトに十分な重さがない。他にもトラブルが多く、1年以上も前にエンジンの更改が決まったが、棚上げされたままになっている。製品開発を縮小しなければならなくなったからである。
……エンジンが製品検査をクリアできるように、事業部のトップに腰を上げてもらわなければ」
〈オークランド〉の販売台数は1919年から21年にかけて、5万2124台→3万4839台→1万1852台と減少していった。これだけで惨状がうかがえるだろう。
〈オールズ〉も状況は変わらなかった。販売台数が4万1127台→3万3949台→1万8978台と下降線をたどり、モデルチェンジをしない限り立て直しを図れそうもなかった。
〈キャデラック〉は、1920年に1万9790台だった販売数が21年には1万1130台に落ち込み、物価の大幅下落も重なって、コスト、価格、台数のバランスを見直さざるをえない状況となっていた。
GMにとってとりわけ大きな痛手となったのは、1921年に〈ビュイック〉と〈キャデラック〉を除くすべての製品ラインが損失を出したことである。〈シボレー〉などは、前年度と比べて販売台数を半減させている。単月の損失が一時は100万ドルに迫り、通年度では約500万ドルに達した。
このような状態であったから、「ビュイックのトップを一新してはどうか」という意見が出された時には、私はハリー・バセットがウォルター・クライスラーの方針を継いで高い業績を上げていたことを思って、いてもたってもいられなくなり、デュポンに文書でこう訴えた。
「〈ビュイック〉の収益力を削ぐようなことは何としても避けるべきでしょう。そのようなことをするくらいでしたら、他の事業部すべてを廃止したほうが、はるかに理にかなっています」
これがけっして誇張でないことは、〈ビュイック〉の業績を振り返ってみれば納得できるはずである。不況のさなかでも販売台数の落ち込みを小幅に抑え(1919年と21年の実績はそれぞれ11万5401台と8万122台)、何より収益源としての役目を果たしてくれていた。〈ビュイック〉こそがGMの製品ライン全体を支えていたのである。
このようなアンバランスはなぜ生じていたのだろうか。大きな理由は、〈ビュイック〉と〈キャデラック〉が優れた品質と信頼性を誇っていたのに対して、他の製品ラインがふがいなかったことだろう。経済不況が訪れたことで、こうした優劣がそのまま業績の差となって表れた。
不況の下で販売台数が落ち込むことは避けられなかったが、減少幅がどの程度に抑えられるかは、各事業部のマネジメント手腕にかかっていた。
不況は経営体力の弱さを際立たせる。1920年から21年にかけての不況も同じだった。この期間にGMは、乗用車・トラック市場でのシェアを17%から12%へと下げている。
対照的にフォードは、台数ベースのシェアを45%から60%へと伸ばしている。GMが販売台数ばかりか、大多数の事業部で利益率を悪化させていたというのに、フォードは1908年以来、他社から大きな挑戦を受けることなく市場支配を強めていた。
全体としてGMはきわめて厳しい状況にあった。規模の大きな低価格市場ではまったく競争力がなく、羅針盤も持っていなかったのである。疑いようがなかった――GMは①いかにして低価格市場に参入すべきか、②製品ラインをどう整えるべきか、判断を下さなければならなかったのである。
さらに、どういった対策を選ぶにせよ、R&D(研究開発)や販売についての方針も定める必要があった。
フォードへの挑戦
以上のような状況を考え合わせればごく当然のことだが、経営委員会は1921年4月6日に特別諮問委員会の設置を決めた。
経営上層部から業界経験の長い者がメンバーとして選ばれ、製品ポリシーを検討することになった。諮問委員会はいわば、GMの将来を決定づける重要なミッションを与えられたのである。メンバーは下記のとおりである。
C. S. モット
乗用車、トラック、部品などの統括責任者
ノーバル A. ホーキンズ
フォードでセールス部門のトップを務めた後、GM入りした
C. F. ケッタリング
研究グループ
H. H. バセット
ビュイック事業部ゼネラル・マネジャー
K. W. ジンマーシード
シボレー事業部の新任ゼネラル・マネジャー
経営委員会からは私が参加することになった。私は当時、諮問委員会を担当し、特別委員会のメンバーのなかでも地位が上であったため、責任者を務めることとなった。
特別委員会は、およそ1カ月で製品ポリシーの検討を終えた。6月9日には、経営委員会に提案を行い、了承された。内容は製品ポリシーのみならず、基本戦略、市場戦略などをカバーしており、事業全体の進め方を示していたといえる。
この内容は、市場環境だけでなく、社内事情をも反映したものだった。まず、経営委員会から事前に、「低価格市場に参入する」という方針を伝えられていた。これは、フォードの牙城に挑むことを意味し、経営委員会はこの前提に沿った提案を求めてきた。
特に、低価格市場を2種類の価格帯に分けて、その一つでフォード車に対抗するというシナリオが示された。他の価格セグメントについても追って検討するようにとの指示だった。
ただし、〈ビュイック〉と〈キャデラック〉はすでに優れたポジショニングによって成果を上げていたため、見直しの対象外とされた。
ところで、GMの社内にはこの時すでに、大きな議論の火種が生まれていた。数週間前に、ピエール S. デュポンをトップとする経営委員会が、低価格市場に乗り込むに当たって、ある「革命的な新技術」を切り札にすると決めていたのである。
この構想には大きな期待が寄せられていたが、私自身はやや懐疑的だった。はたしてGMに、難題をすべて克服できるだけのエンジニアリング力があるのか、不安だったのである。
その意味で、製品ポリシーを打ち立てる最大の目的は、深い製品知識を持った人々を議論に巻き込むことであった。さらに、時代遅れになりつつあった製品ラインを早急に再編すること、関係者すべてが納得するような原則を定めることも求められていた。
何より、新しい製品ポリシーは全社の針路に合ったものでなければならなかった。このため、私たちは全体像を描くことにして、そこに既知の要素をすべて埋め込んでいくようにした。
会社の理想像の追求
このようにして、事業の揺籃期には珍しいことだが、新経営陣は事業目的を冷静に見つめ直し、大小さまざまな課題に対処することになった。目の前の具体的な課題について、合意を引き出すのは容易なことではなかった。
くだんの革命的な新技術にしても、経営委員会の他のメンバーは非常に熱心だったが、私は単なる製品コンセプトを超えて、事業コンセプトを設けたいと考えた。
そこで、特別諮問委員会は「あるべき姿」を描くことから始めた。現状をベースにした発想を退け、GMの理想像を念頭に置きながらポリシーを築いていくことにしたのである。
現実にはさまざまな制約があり、理想どおりの経営を実現するのは容易ではない。だが、それを承知のうえで、未来へ向けて理想的な軌跡を描くことを目指した。
まず、業務プロセスの前提を明確にし、投資を行う際には、①十分な配当を生み出すこと、②資産価値を維持・向上させていくこと、を第一に考えるべきだと定めた。こうも宣言した。「単に自動車を生産することが社の目的ではない。事業を通して利益を上げなければならないのである」
このような前向きなメッセージは、時代の空気には合わなかったかもしれないが、私はいまでも、ゴールへの近道はビジネスの基本を押さえることだと信じている。
GMは1908年以来、業績の思わしくない自動車メーカーを次々と吸収し、その多くを依然として稼働させていたため、製品ラインから利益を生み出すことが求められていた。特別諮問委員会はこうも表明した。
「GMが収益力を身につけ明るい未来を切り開けるかどうかは、他社にひけを取らない製品を最小のコストで大量生産できるかどうかにかかっている」
コストを極限まで抑えて、なおかつ効用を最大化するというのは、実際には不可能だろう。これはいわば言葉のあやで、今日であれば「生産の最適化」といった正確な表現を用いることになるだろう。
いずれにせよ、このゴールに近づくために何をしなければならないかは明らかだった。車種を減らし、GM車同士の競合を避けなければならなかったのである。
合理化は何年もかけて、さまざまなかたちで進められていった。そのプロセスで、GMは顧客の利益を実現していった。これは事業の繁栄に欠かせない要件である。
経営委員会では、「革命的な新技術」でフォードに挑むべきだ、といった意見が大勢を占めていた。たしかに、何らかの“秘策”なしにはフォードに打ち勝つことはできそうもなかった。
あるいは、低価格市場に参入すれば、どのようなかたちにせよ、それまでに培ってきた経営リソースを無駄にしかねない、との懸念も社内にはあったようである。
しかしいずれにせよ、大量生産によって、買い手の多い低価格市場に挑むとの方針が揺らぐことはなかった。特別諮問委員会にとって最大の課題は、そのための道をつけることであった。その答えとして、経営委員会の推す新技術を、製品ポリシー全体のなかで位置づけることにした。
製品ポリシーを打ち出す
あの時に定めた製品ポリシーは時代の移り変わりに耐え、今日でもGMの名声を支えている。
①すべての価格セグメントに参入する――大衆車から高級車まですべてを生産するが、あくまでも大量生産を貫き、少量生産は行わない。
②各セグメントの価格幅を工夫して、規模の利益を最大限に引き出せるようにする。
③GM車同士の競合を避ける。
この3点は厳密に守られたわけではなく、GM車同士が競合するのを完全に避けることはできなかった。
ともあれ、この製品ポリシーが定められたことでGMはある意味で生まれ変わり、フォードその他のライバル企業と異なった独自の道を歩み始めることができた。
言うまでもなく、私たちはこのポリシーに自信を持ち、市場での優位につながるだろうと信じていた。繰り返すが、企業は個々の製品だけではなく、製品ポリシーによって他社と競争している。
何十年も前に立てたこのポリシーは、いまから見れば常識にすぎず、あたかも靴のメーカーが「これからはサイズを複数揃えます」とさも誇らしげに述べているようなものだろう。しかし、当時はけっして自明の内容ではなかった。
フォードは2つのモデル――低価格・大量生産の〈T型フォード〉と高価格・少量生産の〈リンカーン〉――のみで全市場の50%超を押さえていた。ドッジ、ウィリス、マックスウェル(後のクライスラー)、ハドソン、スチュードベーカー、ナッシュほか、並みいるメーカーが他のポリシーを土台に存在感を示し、さらなる躍進を期していた。
GMの製品ポリシーは、効果が削がれてしまう危険もなかったわけではない。他社にとって、追随できない内容ではなかったからである。しかし、当時はどの一社として追随しようとはしなかった。長年にわたってGMだけがこの路線を歩み、有効性を示していくことになった。
私たちは、製品ポリシー全体をさらに肉づけし、単独でも意義のある方針を盛り込んでいった。設計面では、各セグメントで最高レベルの車種と肩を並べられればそれでよいとした。他社を凌ぐデザインを追求することも、未知への挑戦を試みることも、必要ないと考えたのである。
個人的にはこちらのほうが、従来の〈シボレー〉に代えてリスクの大きい新型車を投入するよりも望ましいと考えていた。新型車は実現すれば素晴らしいに違いないが、まずは大本の事業戦略を固めたかった。ピエール S. デュポンも、新しい戦略を大筋で支持してくれていた。
私たち特別委員会のメンバーは、言うまでもなく、すべてのセグメントでGM車が優位に立てると信じていた。
12%という市場シェアでは追い風にはならなかったが、それでも、幅広い製品ラインは大きな武器になるに違いなかった。
製品のラインアップと品質の両面で、けっして他社に劣ることはないだろうと自負していた――他社の得意分野では肩を並べ、他社の不得意分野では上に立てるだろうと。
事業部の協力と統合
生産についても、フォードを意識しながら、同じような原則を定めた。すなわち、最強のライバルと同じ効率性を実現できればそれでよい、としたのである。広告、販売、サービスも同様である。
社内に向けては、優位を築くカギは、すべての事業部が足並みを揃えて、全社の方針に従うことだと訴えていった。各事業部や工場が連携を深めて、同じ方向を目指すようになれば、おのずから全体の効率がアップするはずであった。
このことは、エンジニアリングその他の分野にも当てはまった。高いハードルを設けることで、ライバルに劣らない体制が築けたはずであった。チームワークを生かすことで、コストを下げながら生産量を増やしていけるはずであった。
当時、販売数は多くはなかったが、産業全体を視野に入れて全社のたどるべき道筋を示したことで、将来に向けては自信を持つことができた。エンジニアリング分野では全セグメントで主流となり、生産、広告、販売その他の分野でもまぎれもない市場リーダーとなるだろう――。
以上のような方針をつくり終えた後、特別委員会では、「①600ドル以下、②600ドル超900ドル以下、の2種類の車種を開発する」という経営委員会の方針を受け入れることにした。
特別委員会の側からはさらに4車種を提案し、それぞれの価格帯を厳守するように求めた。標準モデルは6つに絞り、できる限り速やかに次の価格帯に集約することにしたのである。
【変更後の価格帯】
①450ドル~600ドル
②600ドル~900ドル
③900ドル~1200ドル
④1200ドル~1700ドル
⑤1700ドル~2500ドル
⑥2500ドル~3500ドル
1921年時点での実際の価格帯と比べるとわかるように、車種を7から6に減らすことになる(〈シボレーFB〉、〈オールズ〉6気筒、8気筒は独自色が強かったため、独立の車種と数えることもできるだろう。その考え方に従えば、車種を10から6に減らしたことになる)。
従来は参入していなかった低価格帯に向けて、新たに車種を投入することも意味した。それまで8車種がひしめき合っていた中価格帯は、4車種に整理されることになった。ここには、製品ラインは全体のバランスと整合性が重要だとの精神が表れている。
低価格車への進出戦略
価格帯を決めると、次は戦略を設けなければならなかった。複雑な内容だが、要約すると以下のようになる。
各価格帯の最上位に車種を投入して、やや背伸びしてでも優れた製品を手にしたいという買い手の心をつかむ。ワンランク上のセグメントからも、「品質の割に価格が安い」と感じた買い手を惹きつける。
言い換えれば、下位セグメントとは品質で、上位セグメントとは価格で競うということである。戦略は、他社から模倣される可能性はあったが、GMとしては、販売台数の少ない価格帯では上下のセグメントから買い手を惹きつけ、売れ行きの好調な価格帯ではその勢いを失わないように努力すればよかった。
車種を一定数以下に抑えて、上下のセグメントまでカバーしないことには、各車種が販売台数を伸ばすことはできない。販売台数が伸びなければ、大量生産のメリットを生かすことができず、「各セグメントをリードする」というゴールが遠のいてしまう。
新しい製品ポリシーは、低価格セグメントへの浸透をことのほか重視している。このセグメントはフォードの独壇場だったが、そこにあえて切り込もうとしていたのである。
フォードの価格はとりわけ低かったため、特別委員会では、同じ品質では勝ち目がないと考え、より優れた製品を、低価格セグメント(【変更後の価格帯】の①)の上限価格で投入すべきだと主張した。そうすれば、フォードの顧客層がやや高めの車種に目を向けてくれるだろう、との判断からである。
予想に反して、GMが600ドルの新車種を売り出すと、買い手は上位セグメントの他社製品(価格750ドル前後)と比べるようになった。仮にグレードがやや落ちたとしても、150ドルを節約したいと考えたのである。
低価格セグメントでの製品ポリシーは明確な狙いを持っていた。1921年4月の時点では、GMはこのセグメントに製品を持っていなかった。そこは〈T型フォード〉の市場だった。その上のセグメントには〈シボレー〉と〈ウィリス・オバーランド〉があるのみだった。
そこでGMは、アメリカひいては世界トップの自動車メーカー、フォードだけをライバルとしてとらえ、製品ポリシーを打ち立てたのである。
私たちが製品ポリシーを検討したのは1921年4月である。その後全セグメントで急速に値が崩れ、価格水準はすっかり変わってしまった。だが、絶対額が変わっても、「低価格セグメントへの浸透を目指す」という目標は不変だった。
1月と9月の価格を比べてみると、〈シボレー490〉が820ドルから525ドルへ、〈T型フォード〉が440ドルから355ドルへと値を下げている。もっとも、〈T型フォード〉のこの価格にはセルフスターターや取り外しの可能なリムは含まれておらず、条件を揃えれば、9月には両車種の価格差は90ドルほどに縮まっていた。
90ドルは無視できない額ではあるが、〈シボレー〉が製品ポリシーに沿って軌道修正を始めていたことはうかがえる。新しい価格帯を切り開くという製品ポリシーによって、GMは王者フォードを射程圏内にとらえようとしていたのである。
各価格帯にどの車種を割り当てるかについても、特別委員会が判断した。低価格セグメントから順に〈シボレー〉〈オークランド〉〈ビュイック4〉〈ビュイック6〉〈オールズ〉〈キャデラック〉とした(〈ビュイック〉の2車種は新規投入)。
この1921年にGMはシェリダンを売却し、スクリプス‐ブースの解体に乗り出した。翌年には〈シボレーFB〉の生産も中止している。〈シボレー〉〈キャデラック〉については従来のポジショニングを保ち続けることになった。
製品ポリシーの要点をまとめると次のようになる。
①フルラインアップを揃えて各車種を大量生産する。
②各価格帯では価格・品質共に高めに保つ。
これが最大の差別化ポイントとなって、GMは〈T型フォード〉とは異なった新しいコンセプトを持つようになった。〈シボレー〉を〈T型フォード〉への対抗車種と位置づけたのである。GMが製品ポリシーを築かなかったなら、低価格市場においてフォードによる独占状態が依然として続いたことだろう。
製品ポリシーの効果
〈フォード〉と〈シボレー〉の市場シェアは1921年にそれぞれ60%と4%であった。フォードは低価格市場を独占していたため、正面から戦いを挑むのは自殺行為に等しかったはずである。
フォードの土俵に乗ってしまったのでは、アメリカの連邦予算を使い尽くしたとしても、勝てる見込みはなかっただろう。
そこで私たちは、フォードの市場から上澄みをすくい取って、〈シボレー〉の販売規模を利益の出る水準まで押し上げようと考えた。
その後何年かすると、買い手の嗜好が洗練され、低価格車離れが進むことになる。長期的には、GMの製品ポリシーが描いたシナリオ通りに世のなかが進んでいったのである。
もっともそのシナリオは、製品開発の羅針盤となるものではあったが、時代をやや先取りしすぎていたきらいがある。市場の成熟を待たなければ、その真価が生きてこなかったのである。
加えて、GM社内でも、さまざまな出来事――なかんずくR&D(研究開発)分野での「革命的な新技術」をめぐる一連の出来事――が起きたため、製品ポリシーはすぐには根づかなかった。こうして、以後しばらくの間GMの発展が足踏みすることになる。
※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。
[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。
有賀裕子/訳
DHBR 2002年5月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.
アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。