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民主主義は非効率か
おめでたい場などで民主主義をほめそやす経営者が、自分の会社に民主主義を取り入れることはまずない──。皮肉な識者は常々そんなことを言う。だが、それが真実であるならば、ビジネスパーソン特有の心理を反映したわけではなく、すべての米国人の特徴と言ってよい。おそらく民主主義国家の市民も同様だろう。
いろいろと不都合な側面もあるけれど、よい人たちにとっては、民主主義はよいものだというわけだ。それは高くつく非効率な贅沢品、言わば中世の大きな城を所有するようなものだ。基本的には心温まるもので、敬意さえ覚えるが、少しばかりイライラさせられる。おそらく米国では、「民主主義が日曜の朝の礼拝のように軽く扱ってよいものになれば、いろいろなことがもっとスムーズに進むのに」といった不徳な考えを抱いたことがない人は、ほとんどいないだろう。
だが、「よいものだけれど非効率的」という偏見がまかり通っている背景には、理想論が潜んでいる。つまり、制度はそれを維持する人たちの絶対的な善意のおかげで、競争的な環境を生き延びることができるという考えである。
筆者らはこの考えに異論を唱えたい。たとえ今日、そのような善意が根こそぎ失われたとしても、明日目覚めた時、民主主義は依然として根強く残っており、扱いにくいが実践的な形で存在し、経済的、社会的、そして政治的な力によって支えられていることがわかるだろう。
民主主義がこれほど広く受け入れられてきたのは、漠然とした人権の希求があるからではなく、一定の条件下では、民主主義がより「効率的な」の社会組織の形であるからだ(ここでいう効率の概念には、存続し、繁栄することが含まれる)。
相対的に豊かで安定した状況下で、最も長い間存続してきた国が民主主義国である一方で、権威主義体制が、ほぼ例外なく、崩壊するか、不安定な後進国としてどうにか存続してきたのは偶然ではない。
こうした証拠があるにもかかわらず、アドレー・スティーブンソン(米国国連大使などを務めた)のような鋭敏な政治家でさえも、1962年11月4日付『ニューヨーク・タイムズ』紙で、共産主義国家の目標は、我々の目標とは異なると主張している。
「彼らの関心は権力にある」と、スティーブンソンは指摘した。「そして、我々の関心はコミュニティにある。このように根本から異なる目標を抱いている以上、共産主義と民主主義を効率の点から比較することなど、できるわけがない」