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確信こそ成功と挫折の岐路
1920年が暮れようとする頃、ゼネラルモーターズ(以下GM)は組織の立て直しを迫られていた。深刻な経営危機と不況という内憂外患に見舞われていたのである。
自動車市場は冷え切っており、GMの売上げも低迷をきわめていた。他社と同様に、ほとんどの工場が閉鎖に追い込まれたか、完成一歩手前の部品を組み立てて細々と生産を続けるのみだった。在庫と材料費の支払い負担を抱え、キャッシュが底をついていた。製品ラインは混乱状態が続いた。
オペレーションと財務の両面でコントロールが効かなくなり、制御するための手段が欠けていた。あらゆる面で適切な情報が不足していた。端的に言って、GMは社内的にも対外的にも空前の危機に瀕していた。
危機はGMに限ったことではなかったが、他社がやはり苦しい状況にあるからといって、何の慰めになるだろう。
景気後退時にまずふるい落とされるのは弱い企業である。GMはその条件に当てはまった。このような時、希望を失ってしまう人もいるが、私はけっして悲観論にくみすることはなかった。いずれ必ず景気は好転する、長い目で見れば経済は成長していくはずだ、と信じ続けた。
この年、私は、慎重かつ大胆であることの大切さを学んだ。環境を変えることも、先行きを正確に見通すこともできなかったが、フットワークを軽くすれば不調の波を乗り切れるだろう――そう考えたのである。
市場の先行きは、短期的には予断を許さなかった。それでも私たちは、自動車の将来性と経済の再生を信じ続けていた。こう記すのにはわけがある。
ビジネスの世界では「信じる」ということが大切なのである。可能性を信じるかどうかで明暗が分かれることもあるだろう。私はGMの同僚たちと共に確信していた。自動車は新たな輸送手段として定着しつつある。市場もやがて活気を取り戻すに違いない――。
1920年の年次報告書には、その時点までの自動車産業の発展を振り返ったうえで、上記のような明るい見通しをしたためた。そして、目の前の課題を直視することにした。
ピエール S. デュポンの社長就任
すべてに先立ってなすべきことがあった。ウィリアム・デュラントが去ったため、社長のポストを埋めなければならなかったのである。私にとって、だれが新社長になるべきかは明らかだった。ピエール S. デュポンである。
個人的なつき合いこそほとんどなかったが、氏の名声と人望をもってすれば、社員の心に希望の灯をともし、社会や金融機関の信任を取り戻すことができると思われた。社内の混乱を収める力もあるように見受けられた。
もとより氏はGMの会長であり、最大株主でもあった。デュポン社の経営およびGMとの資本関係を通して、ビジネスリーダーとしての資質も証明していた。
しいて他に候補を挙げるとすれば、ジョン J. ラスコブのみだった。ラスコブはピエール・デュポンの右腕として大きな影響力を持ち、GM財務委員会の議長を務めていた。