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個人的な体験や感情は、どのようにして他者と共有できるのだろう。不安や焦燥、心の葛藤といった、目に見えない思いが形になったのが私の作品だ。赤や黒の糸を空間に張りめぐらせたり、膨大な数の使い古された物を積み重ねたりしながら、人の記憶を可視化していく。私は、そのような個人的な記憶を、作品を観る人々が共感できるような形で表現したい。「私」から始まったものが、「私たち」になって初めてアートと呼べるものになるのではないだろうか。
私の作品は、新しい物ではなく、誰かに使われていた物でつくることが多い。履き古された靴、使われなくなった船。それらを赤や黒の糸でつないでいく。持ち主は不在だが、誰かの記憶が宿っている。その不在の痕跡が、かえってそこにいた人の存在を際立たせる。とても個人的なその存在を、私は糸を紡ぎながらたどっていきたい。
たとえば、約440個のスーツケースを赤い糸で吊るした作品『集積―目的地を求めて』では、ベルリンのフリーマーケットで買い集めた古いスーツケースを使った。あるスーツケースの中に、旅の持ち物リストが入っていた。それは「Tシャツ3枚」「靴下6足」といった、現代の私たちが用意するリストと変わらないもので、読んでいると持ち主の存在が見えてくるようだった。姿はなくても、私たちはたしかにつながっている。
人が亡くなった時、その持ち主がいなくなった物は、価値を失ってしまうのだろうか。ベルリンのフリーマーケットでは、パスポートや卒業証明書が売られていることがある。それらは、持ち主が生きている間にはとても重要な役割を果たすが、ひとたびその人がいなくなると、ただの紙になってしまう。しかし、だからこそ、そこに宿っている記憶は大切で、そこにいた人を表現しなければならないと思っている。そして、作品を通してその記憶を他者と共有したいのだ。
客観性を追求することが普遍性をもたらす
極めて個人的な記憶を、多くの人が共感できる普遍的な作品にすること。それは主観的な表現によって生まれるのではなく、自分の視点を手放し、客観性を追求することによってもたらされるのかもしれない。