R&Dから経済的成果を生み出すために

 株式市場で「宇宙関連株」の人気が沸騰していた1年ほど前(1962年)、ある市況リポートは、陳腐化した観のあるPER(株価収益率)に代わる新たな投資尺度として「株価研究予算率」(price/research-budget ratio)なるものを提案した。今日では何と無知なことかと思われる。

 とはいえ、株価研究予算率という概念の根底にある考え、つまり「研究」とはそれ自体が有意義な業績であり、何はともあれ一応の成果を保証するものであるとする考えは、いまなお健在である。

 暗黙の了解であるうちならともかく、このようにあからさまに公言されると、その誤謬が目につくようになる。研究はコストであり、また投資なのだ。絶対確実の成果を上げるどころか、きわめて投機的で、きわめて不確実な取り組みであり、成果を生むには最大限のマネジメント能力を要する。

 過去10年間のアメリカ企業の実績から判断するに、我々が実際に得意としているのは、R&D費を使うことだけである。研究のための支出からいかに成果を引き出すべきか、その方法を我々は学んでいかなければならない。

陥穽と失態

 R&D費はアメリカ経済の「成長部門」になっており、その金額は4年ごとに倍増している。さらに顕著なのは、国の態度の変化である。ある地方が防衛契約の不足に不満を唱えても、以前なら民主党員の選出を増やすようにとの一言で済まされていた。ところが現在では、業界研究にもっと資金を注入せよとアドバイスされるのだ。

 しかし、R&D費支出が跳ね上がったからといって、研究活動も増えているだろうか。R&D費支出はわずか10年間で40億ドルから150億ドルへと膨れ上がっている。

 残念ながらこの数字の大部分は、非研究活動、とりわけ研究支援費の増大を示しているにすぎない。つまり、事務員や報告書の作成者、大がかり、しかもほとんど無益で詳細な説明、新しい建物や複雑な装置に費やされているのである。

 どれほど多くの企業が、最新流行の装置、たとえば極低温室などに何百万ドルもの金を費やしていることか。しかも、このような立派な設備を、商業的価値といった成果を生み出すとの卑しい目的のために本当に使われることになるのか、自問自答することもせずに、である。