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建築の世界では、設計する人とつくる人の役割がはっきり分かれているのが当たり前とされてきた。設計士が描いた図面を、職人たちが計画通り寸分違わず再現していく。そうやって完成したものが「よい建築」だとされることに、ずっと違和感を持っていた。
僕は、建物がただ図面通りにでき上がっていく過程に、どこかつまらなさを感じていたのだ。多くの人が関わっているはずなのに、その痕跡が残っていない。完成した建物からは、誰がどう関わったのか、どんな思いでつくられたのかが感じられないことがほとんどだ。
その背景には、近代以降の建築が「効率」や「機能」を優先してきたことがあると思う。建物は、まず使えること、機能することが前提であって、そのために無駄な要素はどんどん削ぎ落とされていく。理屈で説明しづらいものは、なくても成立するならば不要だと切り捨てられてきた。
でも僕は、建築というのはもっと複雑な営みのはずだと思っている。つくる行為の中には、機能や構造だけでは説明しきれない、人の体や感情、時間の重なりが含まれている。そうしたものが反映される余地が、いまの都市からはどんどん失われているように感じる。
こうした分断の構造に対する僕なりの応答が、「蟻鱒鳶ル」(アリマストンビル)という建築だ。東京・三田の一角で、20年以上かけて、自分の手でつくり続けている。建物を建てながら考え、偶然の気づきや発見を反映させる。完成を急がず、即興的に、体で建築と対話し続けるプロジェクトだ。
