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確信こそ成功と挫折の岐路
1920年が暮れようとする頃、ゼネラルモーターズ(以下GM)は組織の立て直しを迫られていた。深刻な経営危機と不況という内憂外患に見舞われていたのである。
自動車市場は冷え切っており、GMの売上げも低迷をきわめていた。他社と同様に、ほとんどの工場が閉鎖に追い込まれたか、完成一歩手前の部品を組み立てて細々と生産を続けるのみだった。在庫と材料費の支払い負担を抱え、キャッシュが底をついていた。製品ラインは混乱状態が続いた。
オペレーションと財務の両面でコントロールが効かなくなり、制御するための手段が欠けていた。あらゆる面で適切な情報が不足していた。端的に言って、GMは社内的にも対外的にも空前の危機に瀕していた。
危機はGMに限ったことではなかったが、他社がやはり苦しい状況にあるからといって、何の慰めになるだろう。
景気後退時にまずふるい落とされるのは弱い企業である。GMはその条件に当てはまった。このような時、希望を失ってしまう人もいるが、私はけっして悲観論にくみすることはなかった。いずれ必ず景気は好転する、長い目で見れば経済は成長していくはずだ、と信じ続けた。
この年、私は、慎重かつ大胆であることの大切さを学んだ。環境を変えることも、先行きを正確に見通すこともできなかったが、フットワークを軽くすれば不調の波を乗り切れるだろう――そう考えたのである。
市場の先行きは、短期的には予断を許さなかった。それでも私たちは、自動車の将来性と経済の再生を信じ続けていた。こう記すのにはわけがある。
ビジネスの世界では「信じる」ということが大切なのである。可能性を信じるかどうかで明暗が分かれることもあるだろう。私はGMの同僚たちと共に確信していた。自動車は新たな輸送手段として定着しつつある。市場もやがて活気を取り戻すに違いない――。
1920年の年次報告書には、その時点までの自動車産業の発展を振り返ったうえで、上記のような明るい見通しをしたためた。そして、目の前の課題を直視することにした。
ピエール S. デュポンの社長就任
すべてに先立ってなすべきことがあった。ウィリアム・デュラントが去ったため、社長のポストを埋めなければならなかったのである。私にとって、だれが新社長になるべきかは明らかだった。ピエール S. デュポンである。
個人的なつき合いこそほとんどなかったが、氏の名声と人望をもってすれば、社員の心に希望の灯をともし、社会や金融機関の信任を取り戻すことができると思われた。社内の混乱を収める力もあるように見受けられた。
もとより氏はGMの会長であり、最大株主でもあった。デュポン社の経営およびGMとの資本関係を通して、ビジネスリーダーとしての資質も証明していた。
しいて他に候補を挙げるとすれば、ジョン J. ラスコブのみだった。ラスコブはピエール・デュポンの右腕として大きな影響力を持ち、GM財務委員会の議長を務めていた。
ラスコブがその才覚だけでキャリアの階段を上ってきたことは、よく知られていた。伝え聞くところでは、19世紀から20世紀の変わり目に、ピエール・デュポンのタイピスト兼アシスタントとして雇われ、その豊かなイマジネーションと財務の能力を高く評価されたのだという。
デュポンがデュポン社の財務を司るようになると、秘書兼ブレーン役として取り立てられ、ついに財務責任者の地位を与えられる。ラスコブは長年にわたって、デュポンに影のように寄り添っていたわけだが、性格は大きく違っていた。
石橋を叩いて渡るようなところがあったデュポンに対して、ラスコブは才気とイマジネーションをみなぎらせていた。デュポンは恰幅がよく物静かで、自分から前に出ようとすることは少なかったが、ラスコブのほうはあまり上背がなく、饒舌だった。気さくで、話していて楽しかった。
壮大なアイデアを抱いており、しばしばアイデアを携えて私のオフィスに現れては、すぐに実現してほしいと求めてきたものだ。「関係者すべてを集めて、いますぐに会議を開こう」などと迫ってくるのである。
あえてラスコブの欠点を挙げるなら、大胆さと性急さだろうが、それらはとりも直さず美点でもあった。自動車産業の未来を見通す力も抜きん出ていた。
このように、デュポンとラスコブは共に優れた経営者だったが、あらゆる角度から見ていくとデュポンが最も適任だと思われた。これは関係者全員の判断だった。ピエール・デュポンほど多くの条件を満たす人物はいなかったのである。
ただし、一つだけ不安があった。デュポンは自動車産業についての深い知識を持っていなかったのである。私は元来、事業について深く知らずして優れた経営をすることはできない、といった古い考え方を持っていた。
だが、当時の状況では、強いリーダーシップで会社を動かしていくこと、将来への希望を生み出すことが何よりも求められた。事業についての知識は他の人材で補えばよい。こうした考えから、社長人事が話題に上るつど、私は「デュポン氏以外には考えられない」と強く訴えた。
とはいえ、デュポンが社長に選ばれたのは、私が推したからではない。より大きな影響力を持つ人物が他に大勢いた。デュポン本人も、GMの経営と財務を支えていく理由を持っていた。
デュポン社はGMが破滅の淵に立たされていた時にデュラントの株を引き取り、1921年には普通株式の保有比率を36%にまで伸ばすことになっていた。ピエール・デュポンがGMを危機から救うべき立場にあるのは明らかだった。
氏は後にこう語っている
「大きな迷いがありました。経営の第一線からはすでに退いていましたし……。ですが、『皆さんの意思に添えるよう、最善の努力をしましょう』とお答えしました。長く社長の座にとどまることはない、あくまでも適任者が見つかるまでの代役だということをはっきりさせたうえで、引き受けたのです」
こうしてピエール・デュポンがGMの新社長となった。ラスコブは引き続き財務委員会の議長にとどまり、その後の数年間、GMの対外的なスポークスマンとしての役目も果たした。
私は、J. エイモリー・ハスケルと共に新社長を補佐することになった。1920年12月30日の取締役会でデュポンが配布した資料にはこうある。「経営委員会の開かれていない間、あるいは社長の不在時には、ハスケルとスローンに諸問題の解決を委ねることとしたい」
経営委員会は再編・縮小され、当面はデュポン、ラスコブ、ハスケル、私の4人のみで経営方針を定めたり、事業運営の指揮を執ったりすることになった。各事業のトップも参加する旧経営委員会は諮問委員会とされた。
このような変革は、非常時に対応したものとはいえ、かつてない大がかりな組織改編と相まって、事業哲学とは何かという根本的な問いを投げかけることとなった。議事録にしてしまうとそっけないが、当時の情勢の下では、変革の持つ意味はきわめて広く深かった。新経営陣がまず取り組むべき課題について、この年最後の経営会議(1920年12月30日)の議事録にはこう記されている。
社長から新しい組織プランと説明文が提示される。本件につき時間をかけて討議(図1「GMの組織図」を参照)。
プランは全員の賛成を得て、取締役会でも承認された。年が明けた1月3日からGMは新しい体制で運営されることとなった。
この組織プランには土台があった。私が1年ほど前に書き起こし、デュラントに提出した『組織についての考察』である[注1]。そこに私が示した事業部制のコンセプトは、その後GMの経営原則を支えるようになり、さらにはアメリカの大企業に広く影響を及ぼしたとされている。そこで、その由来と内容について簡単に触れることにする。
事業部制のコンセプト
まずは由来だが、一部には、GMが事業部制を取り入れたのは、当時近しい関係にあったデュポン社にならってのことだとする向きがあるようだ。実際は、この2社の経営陣は別個に組織のあり方に関心を寄せ、やがて共に事業部制を採用するに至ったのである。
だが、アプローチの方向はまったく逆だった。デュポン社は従来、当時の多くのアメリカ企業と同じように集権的な組織を採用していた。GMのほうは極端なまでに分権化が進んでいて、分権化のメリットを失わないままでいかに全社の足並みを揃えるか、その答えを見出す必要に迫られていた。
このように2社は出発点が異なり、製品の性質やマーケティングにも隔たりがあったため、同じ組織モデルを採用するのは実際的とはいえなかった。
デュポンの経営陣も数年前から組織のあるべき姿を探っていたが、事業部制の導入に踏み切ったのは、GMが組織改編をした9カ月後のことである。両社の組織プランは共に「事業部制」を柱としているが、具体的には共通する点はなきに等しかった。
中央によるコントロールの行きすぎと不在――多くのアメリカ企業はほどなく、デュポンとGMを悩ませたこの組織上の問題に直面することになったのである。
デュポン、GMの2社がいち早くこうした問題に目を向け対処したのは、一つには、1920年から21年にかけて、他社よりも大きく複雑な経営課題を背負っていたからだろう。
もう一つの理由としては、当時の経営者全般と比べて、組織の観点からものごとをとらえる傾向が強かったことが挙げられるだろう。実際私たちは、この点でアカデミズムの世界にも先んじていた。これから紹介する組織についての考え方は、けっして机上だけで考えたものではない。
GMは第1次世界大戦後に拡大路線を取ったことで、組織にひずみを抱えるようになっていた。その打開策を探ろうとして生まれたのが『組織についての考察』である。
私のマネジメント観がどの程度、周囲からの影響で成り立っているかは、定かではない。そもそも、100%オリジナルなアイデアなどというものは存在しないだろう。
だが、『考察』に示した考えは主に、ハイアット・ベアリング・カンパニー、ユナイテッド・モーターズ、GMの経営に携わるなかで育まれていったものだと思う。私は読書家ではなかったが、いずれにしてもあの時代には、組織に関する役立つ書物はきわめて少なかったようである。
私には軍隊経験もなく、ハイアットでのおよそ20年間は、ベアリングのみを製造する小さな組織のマネジメントを身につけていった。一つの組織がエンジニアリング、生産、販売、財務などの機能すべてを持っていた。経営チームは小人数で、経営委員会のようなものはなかった。GMとは違って、組織面の問題を抱えているわけでもなかった。
その後ユナイテッド・モーターズで初めて、複数の事業を行う企業を率いることになった。製品別に組織が分かれていたため、当初、全社は「自動車のパーツやアクセサリーを製造している」という一点だけで結びつきながら、クラクション、ラジエーター、ベアリング、リムなどを製造し、自動車メーカーと一般顧客向けに販売していた。
だが、わずかとはいえ事業間で足並みを揃える動きも生まれるようになった。サービス業務の一元化などはその例である。
多数の細々とした製品について、別個の代理店にサービスを委託するのでは非効率だったため、1916年10月14日にユナイテッド・モーターズ・サービスを設立し、各事業組織に代わって全米でサービス業務を行うことにした。20数都市には直営のサービス・ステーションを置き、その他の地域では数百の代理店と契約した。
無理もないことだが、社内からはしばらくの間抵抗を受けた。各組織を説得するなかで私は、大きな権限を持つことに慣れた組織にとって、全社の利益のために機能を返上するのがどういったことかを知るようになった。ユナイテッド・モーターズ・サービスはその後もGMの一部として、全社と軌を一にしながら発展してきている。
ユナイテッド・モーターズ時代に私は、研究機能の一元化も構想したが、GMの傘下に入ったために立ち消えになった。
全社的なゴールの統一も試み、そのために投資収益率(ROI)の概念を用いることにした。
各事業組織をプロフィット・センターと位置づけ、本社には各事業の効率を共通の尺度で判断するように指示した。この一環としてアカウンティング手法も共通化した。
長くGMのCFO(最高財務責任者)を務めたアルバート・ブラッドレーは後年、「アカウンティングの専門家でないにも関わらず、よくあそこまで考えましたね」などと褒めてくれた。
ROIを事業の価値判断の尺度に
1918年から20年まで、GMはひたすら拡大を続けたが、この間私は“中身と器”のギャップを感じるようになった。事業が広がりゆくのに、組織がついていけなかったのである。
私のなかで確信が育っていった――企業がうまく拡大を続けていくためには、組織の充実が欠かせない。しかし、だれもこの重要な点に注意を払っていないことは明らかだった。
身近なところから例を引きたい。ユナイテッド・モーターズは1918年末にGM傘下に入ったが、当時の一般的な連結手法に従ったのでは、個々の事業についてもユナイテッド・モーターズ全体としてもROIを把握することはできなくなると思われた。そうなれば当然、自分の職掌範囲について従来どおりのコントロールを及ぼすことはままならない。
GMでは、資材の社内取引価格として、コストないしそれに一定パーセントを上乗せした額を用いていた。ところが、ユナイテッド・モーターズでは、社内外の取引に共通の市場価格を適用していた。
GMグループの一員となってからも、私の担当事業は利益を上げていた。その成果を本社の経営陣に知ってほしかった。社内取引の利益が他事業の成果に置き換えられてしまうのでは、割り切れない思いが残る。情報はあいまいにしてはいけない。
自分の担当する事業の利益のみを考えていたわけではない。私は経営委員会のメンバー――GMの経営に責任を負う者――として、全社的な視点を身につけつつあった。
だが、ゆゆしいことに、どの事業が全社にどれだけの損益をもたらしているのか、だれ一人として把握していなかった。このため、効率性の優劣を推し量ることも解き明かすこともできず、投資の配分を客観的に決める道がなかった。以上が、当時の拡大路線が生んだひずみである。
各事業組織が投資枠を求めてしのぎを削るのは自然なこととしても、本社が資本を有効に割り当てる術を知らないようでは困る。客観的な基準がなければ、上層部の意見がまとまらないのはむしろ当然だろう。
さらに言えば、経営委員会のメンバーのなかに、全社的な視点を欠く者もいた。その立場を利用して、担当事業の利益ばかりを増進させようとする者もいたのである。
私はGMグループの一員となるのに先立って、デュラントに事業組織同士の関係について尋ねた。こちらの考えがよく理解されていたのだろう、1918年12月31日には「社内取引ルールの策定委員会」の議長を命じられた。翌夏にはレポートを完成させて、その年(1919年)12月6日の経営委員会で報告した。
内容の骨子をここで紹介しておきたい。今日でこそマネジメントの原則として受け入れられているが、当時としては斬新な内容だった。もとより、現在でも注目に値するはずである。
利益の大きさだけでは、事業の成果を正しく知ることはできない。年間利益が10万ドルであっても、利益率が高ければ追加投資に値するだろう。新たな資本を基に利益を生み出せるからである。
他方で、たとえ1000万ドルの利益を計上していたとしても、利益率がきわめて低ければ、拡大に適さないどころか、利益率が改善しない限り清算すべきであるかもしれない。
重要なのは利益の絶対額ではなく、どれだけの投下資本からその利益を生み出しているかである。この考え方に沿って事業計画を立てないことには、不合理な結果しかもたらされないだろう……。
この考えはいまでも少しも変わっていない。事業の目的は資本を用いて利益を上げることである。
仮に満足のいく利益を上げ続けることができないのであれば、改善をほどこす必要がある。さもなければ撤退して、より利益率の高い事業を始めるべきではないだろうか。
レポートには、社外への販売についての記述もある。
市場で価格が決まるため、その価格のもとで十分な利益が出るのであれば、事業の拡大を正当化できるだろう。
社内の取引価格には、目安として、コストに一定の利益率を上乗せした額を用いるべきだと主張した。併せて、高コストでの製造が容認されることがないように、いくつかの対策も提案している。オペレーションを分析して、可能であればライバル企業と比較してみる、などである。
いずれにせよ、ここでのポイントは具体的手法にあるのではない(具体的手法については他に詳しい人々がいるだろう)。重要なのは、利益率を基に事業の価値を判断するということである。私はこの点を基本として、マネジメント上の諸問題と向き合うことにしていた。
レポートはさらに、利益率の概念が権限の分散、さらには部分と全体の関係においてどういった意味合いを持つかについても触れている。参考になりそうな個所を抜粋しておきたい。
組織への意味合い
(利益率を重んじることは)組織の士気を高める効果を持つ。それというのも、各事業によりどころを与え、GMの一翼を担っているという意識を芽生えさせ、責任の自覚と全社業績への貢献を促すからである。
財務コントロールへの意味合い
事業ごとに、投資からどれだけの利益を得ているか――どれだけの効率を達成しているか――を正確に把握できる。他にいくつの事業が関係し、どれだけの資本を用いているかには左右されず、正しいデータを得られるようになる。
戦略投資への意味合い
全社として、最大の利益を生み出す事業に投資を振り向けることができる。
GMで財務コントロールについて広い視点から意見が出されたのは、おそらくこれが初めてである。
組織に関する課題
その後も私は、組織のあるべき姿を追い続けた。
話がさかのぼるが、1919年の夏が過ぎようとする頃に、海外事業の可能性を探るための視察団に加わったことがある。メンバーはハスケル(団長)、チャールズ・ケッタリング、チャールズ・モット、ウォルター・クライスラー、アルバート・チャンピオン、そして世話役のアルフレッド T. ブラントである。
〈SSフランス号〉での旅だったが、その船上で、海外事業について折りに触れてミーティングを持つ一方、組織について語り合うこともあった。どういった意見が出されたかを思い出すことはできないが、メンバーのなかでハスケルは組織の重要性に目を留めているようだった。
視察を終えてアメリカに戻るとほどなく、ハスケルはデュラントに宛てて書簡をしたためている(1919年10月10日付)。その一節を紹介したい。
ニューヨークを出航したその日から、組織についての検討を始めました。一行全員が加わってくれ、意見の一致を見ることができましたので、現在レポートにまとめているところです。
……実現可能なアイデアですから、さまざまな課題を解決に向わせる一助となるのではないでしょうか。いずれにしましても、直接お会いしてお話ししたほうがよいように思います。
ハスケルは「意見の一致を見ることができました」と記しているが、おそらく「組織が重要であるという点について認識が合いました」という意味だろう。それ以外には考えにくい。なぜなら、私の記憶ではさまざまな意見が飛び交い、一致することはむしろまれだったからである。レポートが作成されたというくだりについても、まったく思い当たる節がない。
遠い記憶をたどって正確な時や場所を思い出すのは――とりわけ当時あまり重要視していなかった問題については――、容易なことではない。
『考察』の由来についても、自分の記憶を確かめたり改めたりしていったところ、1919年に経営委員会のメンバーとして、同僚と共に組織について数多くのタスク(任務)をこなしたことを思い出した。そうした経験を通して、未成熟ながらも『考察』の下地ができていったのだろう。
タスクの一環として、すでに述べたように事業相互の関係を検討すると共に、予算要求をいかに処理すべきか、そのルールも煮詰めていった(後の章で詳しく紹介する)。こうした試行錯誤を重ねながら、経済不況と経営危機が訪れる半年前に書き上げたのが、『組織についての考察』である。
社内で配布したところ、1920年の“ベストセラー”となり、上級マネジャーたちから「ぜひ読ませてほしい」との要望が次々と寄せられたため、何部も用意することになった。競争相手はいなかった。組織上の問題を解決しようという具体的な取り組みは、他にはなされていなかったのである。
1920年9月には、当時会長職にあったピエール S. デュポンのもとへも届けた。そして手紙のやりとりが行われた。以下は『考察』に添えた私の手紙である。
先日お話ししましたように、『組織についての考察』をお送りさせていただきます。1年ほど前に書いたものです。
その後、状況が変わり、組織についての理解も深まりましたが、内容を大きく改める必要はないと考えております。ただし、「補足提案」だけは例外でして……現在であれば、提案しないでしょう。
もし目を通していただけるようでしたら、ぜひ心にお留めください。これはあらゆる当事者にとって受け入れ可能な案を示したもので、理想の組織を描いたものではありません。理想像を述べるとするならば、6ページに挙げた3つのグループを統括するために、エグゼクティブを置くでしょう。
エクスポート・コーポレーションとアクセプタンス・コーポレーションを除く「その他グループ」は最終的には3グループのいずれかに統廃合するのがよいと思われます。
そうすれば社長直属のエグゼクテイブの数が5人に減りますから、社長に時間的余裕が生まれ、より広範な課題に取り組めるのではないでしょうか。
デュポンからも返事が寄せられた。
約束どおり『組織についての考察』をお送りくださりありがとう。できるだけ早い機会に熟読させていただきます。そのうえで、改めて組織について相談したく。
「組織についての考察」の目標
1920年11月末にデュラントが退任してデュポンが社長になると、すぐに組織プランが必要となった。
デュラントは、直感によって独特のマネジメントを行っていたが、新体制を支える人々はまったく別のタイプで、論理的、客観的なマネジメントを目指していたのである。『考察』はそうした目的に合っていたため、多少の修正を経て、全社の方針として取り入れられた。
ただしその内容は、今日のマネジメント理論と比べれば稚拙であると言わざるをえない。デュラントに受け入れてもらうことを念頭に置いて書いたため、遠慮があったのも事実である。書き出しの部分を引用しておく。
この考察は、GMに新しい組織を提案するものである。その目的は、「従来の効率性をいっさい損なわないようにしながら、幅広い事業全体に権限ラインを確立して、全体の調和を図る」ことにある。
基本となるのは以下の2つの原則である。
【原則1】各事業部の最高責任者は、担当分野についてあらゆる権限を持つこととする。各事業部は必要な機能をすべて有し、自主性を十分に発揮しながら筋道に沿って発展を遂げていくことができる。
【原則2】全社を適切にコントロールしながら発展させていくためには、本社が一定の役割を果たすことが欠かせない。
説明はほとんど要さないだろう。冒頭では、権限の明確化、全体としての調和、さらに当時の分権化が持っていたメリット(効率性)をすべて追求していくことを表明している。
だが長い歳月を経たいま、2つの原則を読み直してみると、ばつの悪さを感じずにはいられない。肝心なところで言葉の矛盾をきたしているのだ。
【原則1】で「各事業部の最高責任者は、あらゆる権限を持つ」として分権化を最大限に推し進めようとしながら、【原則2】では「適切にコントロール」するという表現で、各事業部のトップに権限上の枠をはめている。
組織について語る際にはいつも、適切な表現が見つからずに苦しむ。さまざまな相互関係について、その実情をありのままに表すことができないのである。
加えてそのつど、各事業部の完全な独立、調和の必要性、本社によるコントロール、などといった別の側面に光を当ててしまうのである。しかしいずれにせよ、カギを握るのは「相互関係」だ。表現や細かい点を別にすれば、私は今日でも『考察』を貫く精神は正しいと考えているし、その諸原則は企業経営の核心に触れるものだろう。
次に『考察』は、基本原則をいかに応用すべきかを論じている。
……このような原則は、社内の関係者すべての賛成を得られるであろう。そこで、以下のような目的を何としても達成しなければならない。
【目的1】各事業部の役割を明確にすること――その際には他事業部との関係のみならず、本社組織との関係をも定めなければならない。
大まかな表現ではあるが、真実を衝いているだろう。部分と全体の機能が決まれば、組織全体の姿を描けたといえる。なぜなら、各組織レベルにいかに責任を分担させるかという点も、そこにおのずと含まれるからである。
次の目的に進みたい。
【目的2】本社組織の位置づけを定め、全社との足並みを揃えながら必要で合理的な役割を果たせるようにする。
これは実は【目的1】を逆の視点――本社の視点――から表現し直したにすぎない。
【目的3】経営の根幹に関わる権限は、社長すなわちCEO(最高経営責任者)に集中させる。
権限が一元化されているにせよ、そうでないにせよ、企業組織は目的を持って存在しているのである。私自身がCEOの立場にあった時も、本質的なところで権限の行使をためらったことはない。慎重であることを心がけただけである。
望ましい成果を得るには、命令するのではなく、共感を引き出すほうが効果的だが、それでもCEOには大きな権限が欠かせない。第4、第5の目的は引用するだけで十分その趣旨を理解いただけるだろう。
【目的4】社長直属のエグゼクティブを現実的な人数に絞り込む。他に任せておけばよい事柄から社長を解放して、より大きな全社的課題に集中させるためである。
【目的5】事業部や部門が互いにアドバイスを与え合う仕組みを設けて、それぞれが全社の発展に寄与できるようにする。
以上のように、『考察』は組織のあるべき姿を具体的に示そうとしたもので、各事業部がエンジニアリング、生産、販売といった機能を持って自立していることを前提としている。
さらに、デュポンに宛てた手紙でも触れたように、いくつかの事業部をその活動内容に応じてグループ化したうえで、各グループに統括者を配そうとしている。
各ラインとは独立にアドバイザリー・スタッフを置くこと、財務スタッフを置くことなども提案している。経営方針の「立案」と「実行」を区別したうえで、それぞれの役割をどの組織が果たすべきかを示している。
このようなコンセプトは、後に「全体の調和が取れた分権制」として発展していくことになる。
『考察』に私が示した原則を基に、GMの組織は近代化され、極度の集権化とも分権化とも異なる中庸の道を歩むことになった。それは、かつての脆弱な組織から脱皮し、なおかつ強権的な組織に陥らないように心がけるということを意味した。
とはいえ、『考察』の考え方をそのまま適用しただけでは、新しい組織を生み出すことはできなかった。何を事業部の裁量として残し、何を全社的に調整すべきか、中央の果たすべき方針策定、管理といった機能は具体的には何を指すのか……明確にすべき点は多かった。追って述べるように、大きな落とし穴に陥ったこともある。
もしフォード・モーターなどの競合他社が大きなミスを犯さずにいたら、あるいはGMが軌道を修正できずにいたら、業界におけるGMの立場は今日とは違ったものになっていただろう。
新組織のプランは1920年に正式に採用されたが、その後もしばらくは臨機応変に対応せざるをえなかった。
その最初の大きな事例が経営委員会の改組である。メンバー4人は、GMの舵取りを委ねられたとはいえ、それまで一度として自動車製造事業を指揮したことはなかった。
その分野で偉大な才能を発揮したのはデュラント、チャールズ・ナッシュ、クライスラーだったが、3人はいずれも1921年には業界での名声を確立しており、すでに述べた巡り合わせによって、GMのライバルあるいはそれに近い立場にあった。
デュラントはGMを去ってほどなくデュラント・モーターズを設立し、全盛期には〈デュラント〉〈フリント〉〈スター〉〈ロコモービル〉といった数々のブランドを擁するようになる(〈ロコモービル〉は他社から買い取ったブランドである)。
ウォルター・クライスラーは、当時はウィリス・オーバーランドとマックスウェルの経営再建に力を尽しており、後にマックスウェルを買い取ってクライスラー社を設立することになる。ナッシュはすでに、みずからの名前を冠した自動車メーカーを経営していた。
かたやGMの新経営陣はどうだろうか。ピエール S. デュポンは5年ほど前からGM会長の座にあったとはいえ、実際には経営を指揮していたわけではない(しばらくはナッシュ、その後はデュラントがその任に当たった)。
ラスコブはもっぱら財務畑を歩んできていた。ハスケルは業界での経験が浅く、事業現場とのつながりがほとんどなかったうえ、ほどなく経営から身を退かざるをえなくなる(1923年9月9日にその生涯を閉じることになるのである)。
4人のなかでは私が一番経験が深く、業界に長く身を置いていたが、自動車そのものの製造に関してはプロではなかった。ナッシュ、クライスラー、デュラントと比べると、私たち4人の経験不足は歴然としていた。そのうえ、ハスケルが第一線を去り、ラスコブが財務に専念していたため、事業の命運はピエール・デュポンとその補佐役である私の肩にかかってきた。
私はデュポンに身近で仕えるようになり、出張にも同行した。2週間に一度は、共にデトロイトに赴いて各事業部のトップと意見を交わした。6カ月が過ぎた頃には私は実質的なエグゼクティブ・バイス・プレジデントとして、デュポンの意を受けてすべての事業を指揮するようになる。
もっとも、明確な役割分担があったわけではない。デュポンは会長、社長、さらにはシボレー事業部のゼネラル・マネジャーを兼ね、みずから大きな責務を背負ったばかりか、暫定性の強いマネジメント体制をいっそう複雑なものにした。
私たちは経験こそ足りなかったが、情熱でそれを補うことができた。経営委員会は1921年の暮れまで休みなく走り続けた。正規のミーティングだけで実に101回に上っている。その合間にも全員または各人で数え切れないほどの課題――短期、長期の課題――と格闘し、絶えずデトロイト、フリント、デイトンなどの事業部や工場を飛び回っていた。
新体制に変わってから3、4カ月間の状況をまとめるなら、経験不足を筋道立った発想と情熱で補い、それまで無軌道に増え続けていた在庫などを抑えつつあったといえるだろう。
同じ頃、どういった自動車を世に出していくべきか、ポリシーが定まっていないことも見えてきた。こうして、製品ポリシーを明確にすることが次の課題となるのである。
※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。
[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。
【注】
1)ここ数年ようやく当時のことを思い出す機会に恵まれ、草案を書いたおおよその時期を特定することができた。
長い間1920年の春だとばかり思っていたが、実際はそうではなく、1919年から20年に暦が変わる頃――12月5日から翌年1月19日までの間――である。
その根拠は、草案のなかで予算要求ルール策定委員会(この設立は12月5日の経営委員会で決まった)に触れていること、H. H. バセット(ビュイックのゼネラル・マネジャー:当時)が1月19日付の手紙で『考察』の趣旨に強く賛同してくれていることなどである。手紙にはこうある。
「お送りいただいた『考察』をつぶさに拝読しました。素晴らしいお考えだと思います。全面的にご支持申し上げます」
私は21日付で返信している。「お手紙拝見しました。プラン全体を支持していただき、嬉しい限りです。……組織について何らかのアクションが取られるのかどうか、定かではありませんが、関係者すべてが納得するようなかたちに落ち着けばよいと考えています。組織をもう少し整理する必要があるのは間違いないでしょうから」
有賀裕子/訳
DHBR 2002年4月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.
アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズのトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。