変革リーダーは理不尽な危険にさらされている

 長期にわたって目覚ましい成功を収め、燃え尽きて突然倒れてしまう経営トップは多い。あるいは、それほど地位が高くなくとも、組織改革の音頭を取って突き進み、気づいたら職を失っていたという人は身近にいないだろうか。いやあなた自身でもよい。リーダーシップを発揮したがゆえに、左遷されたり村八分にされたりしたことはないだろうか。

 先頭に立つのは危険に身をさらすことである。リーダーシップを発揮するのは心躍らされる、何とも魅力的な行為であり、状況いかんにかかわらず部下がついてくるよう鼓舞する素晴らしい仕事として描かれることが多い。

 しかし、このような描写はリーダーシップの陰の部分を無視している。実際には、リーダーをゲームからのけ者にしようという企てが必ず存在するものだ。ただし、それが当然の場合もままある。戦略上の失敗や度重なる判断ミスの責任は経営者に帰するものだ。

 陰の部分はこれだけではない。本稿で取り上げるのは、よくある社内政治の類ではなく、困難とはいえ変革を断行すべき時に、組織を率いるリーダーが直面するリスクについてである。

 このリスクはきわめて大きい。なぜなら、ある組織をゼロから変革しようとすれば、それが数十億ドル規模の企業であれ、メンバー10人のチームであれ、愛着のあるもの──習慣、忠誠心、あるいは思考様式──を手放してもらう必要が生じるからだ。しかも、そのような犠牲と引き換えに社員が得られるものは、将来が多少ましにはなるかもしれないといった、あやふやな可能性くらいのものだ。

 この種の組織改革を、我々は「適応変革」と呼ぶ。これは「技術変革」とはまったく性質が異なる。技術変革に頭を悩ませるのは、専門職のスタッフくらいであり、対処に苦慮する問題も少なからずあるが、既存のノウハウや問題解決プロセスを適用することで解決可能だ。

 適応変革は、そのような解決策では手に負えない。社員全員が思考や行動を改めなければならないからだ。人そのものが問題であり、解決策も人にある(囲み「コスト削減は『技術変革』、戦略の見直しは『適応変革』」を参照)。

コスト削減は「技術変革」、戦略の見直しは「適応変革」
 適応変革と技術変革の違い、そしてその区別の難しさを示す例え話を紹介しよう。
 車の調子が悪ければ、修理工場へ持っていく。ほとんどの場合、問題は技術的に解決される。しかし、家族の運転の仕方が悪いせいで車の調子がおかしくなっているとすれば、また故障するはずだ。何の疑いもなく技術上の問題として扱い、そのたびに修理工場に持ち込み、また運転する。これを繰り返している限り、真の問題点は見えない。
 もしかすると、飲酒運転を止めるよう母親に注意すべきなのかもしれないし、高齢の祖父に運転を諦めるよう説得すべきかもしれない。あるいは未成年の息子にもっと慎重に運転するよう指導したほうがよいのかもしれない。
 いずれにせよ、修理工場では解決できない問題である。家庭内に何らかの改革が必要なのだが、たやすいことではない。みんな抵抗するだろうし、なかには問題の存在すら頑として認めない人も出てくるだろう。だれかがグループや組織の平衡状態を乱すと、適応変革の影響を直接被らない人まで不快に感じるものだからだ。
 このような適応変革への抵抗は、ビジネスの場面でも起こりうる。実際、適応変革を技術変革と取り違えることはよくある過ちなのだ。
 たとえば、経営幹部は全社的なコスト削減によって純利益を拡大しようとする。これは「どの部門をスリム化すべきなのか」という厳しい選択を避けているだけでなく、本当の課題は戦略の見直しにあるという事実を覆い隠してしまう。
 適応変革を技術変革として扱う限り、経営幹部が長年最も得意としてきたこと──すなわち他人の問題を解決すること──を実行すれば事足りる。社内の人間も、上司は秩序と安定を維持するつもりであるとわかるため、平静でいられる。
「リーダーの地位にある人がみんなの気分を逆撫でるような改革を煽動すべきではないし、社員もそんなことに耐え忍ぶ必要もない。たとえコスト削減という苦痛は避けられないにしても、組織全体をゼロからつくり直すよりかは痛手が少ない」
 ほとんどの社員はこのように考えているのである。

 適応変革が技術変革を伴う場合、これは一見簡単そうに見える。しかし、本気で事を進めようとすれば、変革リーダーは、遅かれ早かれ自身にも社員にも根本的な問題に目を向けるよう求めざるをえない。そればかりではない。組織の一部、または全社を覆すような解決策を甘受してもらわなければならない。