サマリー:人間を取り巻く環境が急速に変化する現代に「人」とはどういう存在になっていくのか。dentsu Japanのメンバーが、さまざまな領域の専門家と「人」の根源的な可能性を議論する不定期のシリーズ、“「人」の探求”。

今回は、デジタルテクノロジーの進化がもたらす利便性がその半面に抱える、社会の分断や民主主義の危機といったジレンマに着目する。現代において、ビジネスの成長と人間社会の健全な発展は、いかに両立しうるのか。憲法と情報法を専門とし、『アテンション・エコノミーのジレンマ』の著者でもある慶應義塾大学大学院教授の山本龍彦氏と、電通 代表取締役副社長執行役員の永井聖士氏による対談を通じて、これからの企業経営や社会にとって不可欠な、新たな羅針盤を提示する。

混沌とする情報空間とマスコミュニケーション

永井 デジタルテクノロジーの進化とデジタルデバイスの普及は、社会を大きく変えました。たとえば、民主主義の根幹である選挙において、SNSやネット動画が有権者の投票行動を変化させています。これに対して日本新聞協会加盟各社は、2025年6月に選挙報道のあり方を足元から見直し、有権者の判断に資する報道を積極的に展開する姿勢を表明しました。

 私たち電通は、長くマーケティングやコミュニケーションを事業領域としてきましたが、ただでさえ現代社会の価値観の多様化で一律的なコミュニケーションが通用しなくなったうえに、社会の分断がこれ以上進めば、そもそも「マスコミュニケーション」という概念自体を維持できるのか、本質的な検証が不可欠な段階に来ていると感じています。

 ただ、人間が社会を形成する限り、メディアの役割がなくなることはないでしょう。課題は、「不特定多数の大衆×メディア」という関係が、「個人×メディア」という形に急速に移行しつつあることに、どのように対応していくかという点にあります。マスメディアは今後ますますパーソナルメディアを意識せざるをえず、逆にパーソナルメディアは収益化のためにマス化を志向する。その狭間で、クライアントの事業を担う私たちがメディアビジネスの現在地をどう捉えるべきか、大きな転換点にあると認識しています。

山本 現在の情報空間は混沌としており、殺伐とした様相を呈しているようにも感じます。そこでは、選挙や民主主義のあり方が大きく変容しているだけでなく、個人レベルでも、発言が炎上したり、事実無根の情報を流されたりして、私たちの尊厳が常に脅かされるようになってきています。

 技術の発展がもたらしたパーソナライズされた広告やコンテンツの配信は、個々人をそれぞれの関心の中に閉じこめる「フィルターバブル」(※1)や「エコーチェンバー」(※2)といった問題も顕在化させました。これは、知識や情報を共有して公共的な事柄について議論できる「公衆」の形成を困難にします。米国の混乱した情報空間などは、かつて思想家のトマス・ホッブズが述べた「万人の万人に対する闘争」(※3)状態にも近づきつつありますが、数年後には日本でも同様の事態が起こりうると強い危機感を抱いています。
※1 フィルターバブル:AIによるプロファイリングなどに基づく選別的なニュース配信
※2 エコーチェンバー:似たような意見を持つ人との交流による意見の増幅
※3 万人の万人に対する闘争:法や秩序がない「自然状態」において、人々が「狼」となって自己利益のために相互に争い合うこと

 こうした中で、電通の役割はとても重要です。偽情報や誹謗中傷を含むコンテンツに自社の広告が表示されることによるブランドイメージの毀損が、広告主にとって大きなリスクになるのは言うまでもありません。いまは単にページビューを稼げるコンテンツに広告を出せばよいという時代ではない。多くの広告主との接点を持つ電通が、どのような広告エコシステムを構築していくのか。それは、単なる広告ビジネスのあり方を超え、メディアを通じて人間や社会そのものをデザインしていくことにもつながります。

“関心経済”が蝕む「自己決定権」という尊厳

永井 当社は1901年の「日本広告」と「電報通信社」の創業以来(1906年に「日本電報通信社」として統合)、メディアのパートナーとして健全な社会の発展を支えることを大切な使命と考えてきました。創業期には新聞が主要メディアであり、私たちはニュースを速やかに新聞社に提供する通信社の機能と、新聞社の収益基盤となる広告を集める広告代理店の機能の両方を担うことで、新聞メディアの発展を支えるエコシステムを構築しました。その後、雑誌、ラジオ、テレビといったマスメディアの勃興期にも、その事業の健全な発展をクライアントとともに支えることで社会に貢献してきたという実績と歴史があります。

 それだけに、2024年に出版された山本先生の著書『アテンション・エコノミーのジレンマ』で指摘されている問題は、現状のメディアのビジネスに対しても示唆的です。特に社会の分断といった問題の先に、人間の根源的な価値であり、また主権に関わる大きな要素である「自己決定権の喪失」というリスクがあるというご指摘は、最近感じていた違和感や焦燥感を突かれたようで、衝撃を受けました。