永井 メディアとして一定の規律を保ちながら、事業成長のための経済的な自由性と葛藤することこそが、健全性の根幹ではないかという点はおっしゃる通りです。現在マスメディアが持つ信用力は、まさにここまでのジレンマの結果であると思います。一方で我々広告業界は、人々のアテンションをいかに獲得するかを生業としてきました。認知獲得をすべての出発点とする仕事には、常にアテンション・エコノミーの持つ負の側面であるリスクが伴うことを痛感しています。
山本 以前、電通の社内勉強会でお話しさせていただいた際、皆さんがこの問題に非常に強い問題意識をお持ちであることに、正直驚かされました。「広告は、憲法で自由が保障された『表現』なのか、それとも単に反射行動を引き起こす『刺激』なのか」といった根源的な問いや、広告のクリエイティブは「創造的な活動なのか、データをもとにしたハッキングなのか」といったジレンマに真剣に悩む姿に、私はむしろ安心感を覚えました。
永井 我々電通グループも、単に自社の事業成長のみを目指すだけではなく、利他的でウェルビーイングな社会を形成することに貢献していきたいという意志がありますので、勉強会でのやり取りでも、電通のメンバーおのおのが、そのジレンマを自身に問い直しながら仕事に向き合っている状態がこぼれ出たのかもしれませんが、むしろ健全な観点だと思っています。そのような中で、現在急速に発達しているAIに関してですが、私たちはAIの活用を、事業パフォーマンス向上や人間のクリエイティビティとの掛け合わせという前提で推進しています。アテンション・エコノミーにおけるAIのテクノロジーについては、どのような点が課題となるでしょうか。
山本 AIは、人間の認知プロセスをハッキングするような刺激的なコンテンツを効率的に生成し、それをパーソナライズして届けることができます。その意味で、AIとアテンション・エコノミーは非常に相性がよく、人間の主体的・自律的な意思決定をゆがめてしまうリスクを増幅させます。
「情報的健康」が拓く人間中心のエコシステム
永井 たとえば新聞も、今後AIや個人データ活用でパーソナライズドメディアになりえます。読者一人ひとりに最適化された記事の構成や配信の優先順位を実現することは、ビジネスの成長に不可欠かもしれません。しかしそれは同時に、フィルターバブルやエコーチェンバーのリスクを内包することにもなります。そのことは放送と配信の融合が進む放送業界も同様です。膨大な視聴データやID情報をビジネスにどう活かすか。次世代の事業成長のためにはデータに基づくパーソナライズ化が必要な要素と考えられますが、公共性の高い健全なメディアであり続ける使命との間で、大きなジレンマを抱えることになります。
山本 私は、現在メディア業界が直面しているジレンマは、新しいビジネスモデルを生み出すポジティブな機会にもなりうると考えています。
たとえば、「レコメンデーション」と「ターゲティング」を分けて考えるという方向性がありえます。視聴データを個人の興味に合わせたコンテンツ推奨に使うことには慎重であるべきですが、広告の出し分けに利用することは、より柔軟に捉えてよいと考えています。また、災害時や選挙報道など、公共性が強く求められる場面で、必要な情報を的確に届けるためにデータを活用することは、むしろ公共性を高めることにつながります。
データの取り扱いは、文脈に応じて慎重に検討すべきであり、一律に判断できるものではありません。
永井 今後は、データの発信者と利用者の双方が高いリテラシーを持ち、データ利活用に取り組む必要がありますね。その根底には、人間の尊厳や時代によって移ろいやすい人間の行動原理に対する深い理解が不可欠だと思います。そうした中で、慶應義塾大学に2024年、「X Dignity(クロス・ディグニティ)センター」が設立された意義は非常に大きいと感じており、私たち電通もメンバーとして参加していますので、広い観点で協力していきたいと考えています。
山本 X Dignityセンターは、人間とAI、人間と自然、さらにはジェンダーといった、これまで自明とされてきた境界が融解し、クロスするような時代に、「人間の尊厳」とは何かをあらためて問い直すための領域横断研究拠点です。文理融合、産学連携、市民社会との対話を通じて、この根源的な問いを探究しています。
私たちが進めている研究テーマの一つに、「情報的健康」があります。デジタル時代には、食べ物の産地や原材料を確認するように、情報の出所・素材や加工の有無などを確かめ、多様な情報を偏らずにバランスよく「食べる」。それにより、偽・誤情報などへの「免疫」を獲得し、みずからの希求する幸福を実現できる状態をつくり出すことが重要になると思うのです。
この「情報的健康」という概念が社会に浸透すれば、食品表示のようにコンテンツの安全性や信頼性を示す「情報表示」などを通じて、私たちは情報を合理的に選択できるようになると思います。それだけでなく、「刺激物」ばかりを提供・推奨する企業が批判される一方、安全で信頼できる情報を提供・推奨する企業が正当に評価され成長する新しい市場を形成できるはずです。同センターでは、電通をはじめとする企業各社と協力し、「情報的健康」を基軸とした新しい情報流通の仕組みづくりも検討しています。
永井 コミュニケーションの原点は、いつの時代も人間にあります。X Dignityセンターが掲げる「人間をより深く理解する」という理念に、そもそもコミュニケーション領域も事業とする私たち電通は大いに共感しています。人間が物事をどう捉え、その行動がどう変化していくのか。それを深く探究することを通じて、クライアントやメディアの皆様とともに、新しいコミュニケーションと社会のあり方を創造していきたい。その意味で、X Dignityセンターとの産学連携には大きな期待を持っており、社内からの関心も高く、さまざまな部署からたくさんの社員が参画しています。情報リテラシーの向上や信用性の確保された情報表示の仕組みづくりなど、社会システムのデザインに貢献していくことも、常にクライアントやメディアの皆様とともに歩み続ける私たちの使命だと強く認識しています。
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