ストレス・コミュニケーションは日常茶飯事

 我々の生活には対話が欠かせない。人間とはそのような動物である。無駄話や雑談に興じ、噂話や冗談を飛ばす。時には「ストレス・コミュニケーション」(stressful conversations)に陥ってしまうことがある。それも案外多い。

 人はちょっとした言葉のやり取りで、通常では考えられないほど傷ついたり、苦悩したりする。

 ストレス・コミュニケーションは、避けて通ることのできない人生の課題なのである。

 ビジネスの世界では、部下にクビを宣告する場合から、不可解なことに称賛を受ける場合まで、ありとあらゆる場面で遭遇する。そして、常に「重たい気分にさせる」ことから、通常の会話とはその性質が異なる。

 ストレス・コミュニケーションは、自分自身に、あるいは相手に、当惑、混乱、不安、怒り、心痛、恐怖といった感情を呼び起こす。これらを嫌って、「とにかく避けるに限る」と考える人も多い。

 このような方針もあながち間違いとは言い切れない。たしかに、戦うべき時機の見極めは、事に処するうえでの鉄則の一つだ。

 しかし、問題と対峙するのを避け、気難しい相手をなだめ、対立を和らげることに終始していては、後々禍根を残す場合もありうる。このような逃げの姿勢では、問題や関係をかえって悪化させてしまうことが多々ある。

 ストレス・コミュニケーションは、かくも頻繁に起こり、苦痛を伴うというのに、なぜ改善の努力がなおざりにされているのか。

 その理由は、当事者の感情が拘束状態に陥っているためである。その渦中にあっても混乱を来してさえいなければ、「あつれきはあって当たり前、解決の糸口はきっとある。少なくとも、何とか切り抜けられるはずだ」と冷静に受け止めることもできるだろう。

 しかし、感情が千々に乱れている場合では、ほとんどの人がバランスを失ってしまう。まるで、白熱した試合で完全に包囲されたクォーターバックのように、トライへの望みが断たれた状態である。