CEO交代はなぜこうも厄介なのか

 偉大なるCEOもいつかは退任を迎える。後はただ後継者を指名すればよく、たいてい取締役会も異論は差し挟まない。両者が協力して社内から後継者を選ぼうとするが、社運を託せるだけの資質を持った人材はなかなか見当たらない。そこで、社外から“期待の星”が招かれる。うまく実績を上げられれば、2、3年後にはCEO(最高経営責任者)になる。

 次期CEO候補は、着任早々から剛腕ぶりを発揮して周囲をうならせる。その鮮やかな戦略と手腕はまたたく間に「数字」を達成する。さらに、独自のマネジメント・スタイルを採用すれば記録破りの成果につながるかもしれない。

 それを見たCEOと取締役会は「自分たちの目に狂いはなかった」と手を取り合って喜ぶ。しかしやがて、このホープの手腕は、ゆっくりとしかし確実にかげりを見せ始める。何につけても自分が出ていこうとする姿勢が、CEOや主要経営メンバーとの間に溝を生み、やがて不興すら買ってしまう。あとは時間の問題だ。どんな施策を打とうとも抵抗に遭い、ことごとく妨害されるケースすら出てくる。

 やがて当人は憤慨し、怒りさえ感じるようになる。しかし、事情を理解できないわけではない。「CEOは退任を前に心の葛藤と闘っているのだろう。手塩にかけてきた会社を他人の手に委ねるには、まだ心の準備ができていないのだ」と。

 取締役会からは依然として大きな期待を寄せられている。いずれトップの座に就くのだから、そのときに備えて組織や戦略を変えなければならないのもわかっている。しかし、CEOとその意を受けた人々の支援なくして、どうしてそれを実現できようか。これでは手足を縛られたも同然だ。

 横車を押すようなことをすればCEOとの溝をいっそう深めてしまうが、かといって弱腰のままでは、次期トップにふさわしい成果は上げられまい。

組織の誕生とともに生まれた難問

 これが「CEO交代のジレンマ」であり、組織というものが登場して以来、リーダーを悩ませてきた解決困難な問題である。リーダーの継承はそれこそ人類永遠の課題であり、『サウルとダビデ』(旧約聖書サムエル記)やシェークスピアの『リア王』のテーマともなっている。サウルにしてもリア王にしても、いったんは後継者を指名するが、その後で権力を手放せなくなる。

 この継承問題はその本質を変えることなく時を経て、現代の組織にも脈々と受け継がれている。後継者は長く険しい道のりを耐えてきた。組織の頂点を極められれば、それこそ感無量だ。

 しかし現権力者にとっては事情が異なり、いざ退くとなると過去が走馬灯のように浮かんでくる。権力を手放すのは自らのキャリアに終止符を打つことであり、場合によっては死すら意味する。両者の関係が不条理に満ちたものになるのも理解できなくはない。

 CEO交代のジレンマには、大きく二通りのシナリオが予想されるが、どちらもけっしてバラ色とは言えない。