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想像してみよう。ビジネスが、砂と、ガラスと、そして波の上に成り立っている。砂は、親指の爪ほどのシリコン片の形をとり、その上にアメリカの街路地図のような複雑な論理パターンが刻み込まれ、情報の流れを1兆分の1秒の速度で変換する。ガラスは、毛髪のように細く、ロングアイランドほどの長さの糸状で、その光源は塩粒ほどの大きさで太陽ほどに明るさを持つレーザー・ダイオードである。そしてこれらすべてが、空気のようにふんだんで、光に匹敵するほど高速の電磁の波で満たされているのである。
このビジョンは早晩実現するだろう。今後10年そこそこの間にマイクロチップは10億個を上回るトランジスタを内蔵するようになり、ハードウエアのコスト効率を100万倍以上に高めることになろう。デスク上のターミナルや居間のテレビは、"テレコンピュータ"(telecomputer)、すなわちデジタル・ビデオ番組の受信だけでなく、その蓄積、加工、製作、伝送まで可能なイメージ処理コンピュータにとって代わられるだろう。こうしたコンピュータをつなぐことにより、家庭やオフィスにまで到達する光ファイバー・ケーブルの世界的な網の目が生まれる。
同時に、携帯電話、その他の移動体通信による個人的接続のための簡便な通信路として、マイクロ波からラジオ波に至る電磁波エネルギーの周波数帯域がすべての人に開かれることになろう。電話機は、ポケット・サイズの強力な無線式オーディオ・コンピュータとなり、デジタルにより高機能化された音響性能、音声認識、さらにはメッセージ記憶機能を備えたものとなる。
こうした技術はそれ自体が瞠目すべきものであるが、同時にそれは事業のあり方まで変革してしまうことになろう。最初のコンピュータ・システムは、企業の階層化、集権化への移行、あるいはその維持を可能とした。バッチ処理型のIBMメインフレームにせよ、電話会社の中央交換機にせよ、あるいはテレビ・スタジオの信号処理装置にせよ、機械が、いつのまにか管理者、労働者、さらには顧客を、トップダウン体制に組み込んでしまった。大部分の人々は、一括出力ターミナル、単純な電話回線、あるいはテレビ(いみじくも"愚かな箱"と呼ばれていた)を通じて、あたかも天上からの声のように情報を受動的に受けていただけである。
これとは対照的に、この新しい技術は対等関係のネットワークを発展させる。ここでは管理者、労働者、顧客が直接交流し、テレコンピュータを用いて、言葉や数字のみならず、3次元シミュレーションから高鮮明フィルムまで、様々な画像ベース情報を、交換、加工、蓄積、表示する。この技術は、マネジメント、顧客、製品、所有、さらには国籍まで含めて、我々の考え方を根底から変えてしまうことになろう。
とはいえ、たとえ最終的にこのビジョンが実現するにしても、決して理論どおりに速やかに具体化するわけではない。アメリカにおいても、そのほんの一端、すなわちコンピュータ・パワーのみが、現下の新しい科学や企業革命に歩調を合わせてたゆみない発展を続けているにとどまる。事実、コンピュータの能力拡大に伴って、コンピュータ間の相互接続に必要な通信インフラストラクチャーに対する欲求不満が高まりつつある。現在の通信配線は人が電話ボックスでできることと大差ない状態にとどまっているのである。
従って、1980年代がマイクロチップの論理処理の分散化が主流を占めた時代だったとするなら、1990年代は電磁波スペクトルの統合的な潜在力によって変革がもたらされる時代と考えられる。通信、つまりデータの形成、移動、交換、あるいは送信は、情報分野の企業家にとってまず第1に考えるべき対象であり、かつ利益の源泉となるに違いない。
ここではいささかの誤りも犯してはならない。未来は流動しており、そして産業界のリーダーたちにとって重要なのはそれを確実に把握することである。企業にとって同様に重要なのは、新技術の持てる力を遅滞なく解き放てる方向で、政治的プログラムに向けて結集することである。
アメリカにとってはこのことはとりわけ緊急の課題である。アメリカのコンピュータ及び電気通信市場は瀬戸際に立っており、今後数年間にアメリカ企業が時代遅れな規制のために、目前にある巨大な機会を損なうようなことがあれば、この場合もやはり強大な日本のライバル企業に市場を奪われてしまうことになろう。
大学の学長、企業の技術幹部、新聞や放送界の有力者等々から、明確なアメリカの産業政策を求める声が数多く出されているが、その中で、爆発的な潜在力を持つ技術変化の核心となるチャレンジを真に理解している者が果たしてどれだけいるだろうか。我々は、アメリカ経済、ひいては世界経済に無限の可能性を約束しているこうした新技術に水を差すような、メディアによる破滅と沈滞のレトリックを容認しようとしているのだろうか。



