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"われわれ"は交渉の席についている。向こう側には"かれら"がすわっている。この交渉の結果によって、アメリカの今後の競争力と経済的安定が左右されることになる。しかし"われわれ"というのは"アメリカに本拠を置く企業"であるとは限らない。"かれら"もまた外国籍の企業ではない。"われわれ"とはアメリカの人々であり、その大多数は労働力としてのアメリカ国民である。一方、"かれら"とはグローバルに活動する経営者で構成されており、今でもその数を増している。かれらは国家の枠を超えて企業活動を遂行しており、特定の国の経済的成功ではなく世界的規模での企業の成果に忠誠を誓う人たちである。
グローバルな経営者は、先グローバル時代の先人たちとは異なって、われわれに対してほとんど忠誠心を持っていない。グローバルな企業においては、企業と国との結び付き、つまりかれらとわれわれの結び付きは、急速に崩れつつある。その結び付きに代わって、われわれは、疎遠で経済的志向の強い経営者がグローバルな規模で運営する資本主義のより純粋な形態が形成されていることを認めることができる。こうした経営者は、本質的に冷徹で合理的な意思決定を行うのであり、人と土地との古いしがらみを捨て去っている。
今日では、生産と立地に関する企業の意思決定は、グローバルな競争環境の導くところに従って行われているのであって、国民的な忠誠に基づいているのではない。例えばIBMは最近120人の役員と年間売上規模100億ドルの通信事業の本部をヨーロッパに移すことを決定したが、この動きは一面ではシンボリックな意味をもっている。つまりグローバリゼーションによって企業は旧来の国境を超えるものにならざるを得ないことを認識させる。また一面では、この動きは実践的な意味をもっている。IBMにとって、成長が期待されるヨーロッパ市場を利用する機会となるからである。
このIBMの例を始めとして無数の事例が示しているように、今日のビジネス競争は国と国の間で行われているのではない。また国と国との間の貿易の流れは、どちらの国に属する企業が優位に立っているかということとは正確に一致してはいない。過去20年間について見れば、アメリカ企業が、世界市場で自らのシェアを維持してきているのに対して、アメリカという国はその優位性を失っている。
1国の富が、その国の国民が大多数の株を所有している企業の収益性を左右するものでもない。国境を越えた所有が流行している。つまりアメリカ国民はヨーロッパや東アジアを本拠地とするグローバル企業の株を購入しているし、ヨーロッパやアジアの諸国民はアメリカを本拠地とする企業の株を購入しているのである。そしてほとんどの企業の利益は、広く世界中に新たに再投資される。
結局のところ、われわれの富と幸福は、われわれが行う仕事やわれわれのスキルと洞察力に対して世界がどのような価値を置くかによって決まる。従って新たなグローバル経済のもとにおいて、われわれがどのような仕事を遂行する、いずれかについてのわれわれとかれらの交渉の重要性に依存することになる。
この点に関して、グローバルな経営者の論理は明快である。つまり、企業の成果を最大にし、市場シェアを拡大し、株価を引き上げることができるならば、世界中どこででも行動することがその論理である。われわれの論理もまた明快である。すなわちグローバルな経営者にアメリカ国内によい仕事をもってこさせることである。われわれは、グローバルな経営者のそうした行動が、それぞれの企業の国籍に関わりなく容易に、魅力的に、生産的に行われるようにすることによって最大の利益を得ることができるのである。同時にわれわれは、かれらがアメリカにもたらす仕事の種類について、われわれの利益を主張し、確保するような形でわれわれとかれらの間の話し合いをもつ必要がある。
グローバル経営者の論理
過去のイメージは魅力的である。強くて誇り高いアメリカ企業は、アメリカ社会にしっかりと定着し、アメリカ人経営者によって運営されている。オフィス、工場、地域社会はすべて、揺るぎない結び付きを保っている。しかしこれはすでに失われつつあるイメージである。現実ではなく、われわれの記憶の中にある理想を意味するにすぎない。企業を中心に形成された町や大量の地域内労働者、一致団結した工場、地域全体を支配する巨大な垂直統合型企業などはすべて消え去ってしまった。企業と地域社会、さらには国との緊密な結び付きも消え去っている。地域社会に対する責任感を保ち、善意に溢れた企業経営者もまた消え去ってしまった。かれらに代わって新しいグローバル経営者が生まれた。かれらグローバル経営者は、抗うことのできないグローバルな資本主義の論理に支配されて、より大きな利益、市場でのリーダーシップの確保、株価の改善を追求する。かれらが活躍する競技場は世界である。
このことは、グローバルな経営を進めるアメリカ人(あるいはイタリア人、ドイツ人等々)を愛国心の面から非難、攻撃しようとするものではない。グローバル経営者も、そのプライベートな生活においては疑いもなく"われわれ"の一員なのであり、われわれに比べてかれらが愛国心に欠けているわけではなく、母国の将来への関心が低いわけでもなく、市民生活上の責務や社会問題への関わりが少ないわけではない。ただビジネスの世界において、グローバル経営者は"かれら"の立場に立つのである。かれらのものの考え方はコスモポリタン的である。つまり、ビジネスを遂行するところが世界中どこであっても世界の企業市民なのである。IBMのトップ経営層のひとりは次のように述べている。
「IBMは、収益の主要な源泉である国や地域がどこであっても、そこでの競争とその国や地域の幸福に関心をもたなければならない」



