ワシントンのロビイスト、超一流弁護士、元政府高官、PRスペシャリスト、政治コンサルタントなど、さらには元大統領らさえも含めて1000名もの人間を雇い入れるために、毎年1億ドル以上も支出しているということが、はたして想像できるだろうか。(それだけではない)しかも国中に草の根的な政治関係のネットワークを築き上げて(米国)世論に働きかけるために、毎年3億ドルもの金を支出しているのだ。この合わせて年間4億ドルもの資金は自らの経済上の利権を推し進め、米国の通商政策に影響力を及ぼし、自らが目標とする諸産業に関して米国内での市場の分け前を勝ち取ろうとしているものなのである。

 これはどれ1つとしても想像上の空想話でもないし、どれ1つ非合法な事柄でもない。この政治キャンペーンを実際に展開している国は、日本なのである。今日の日本は、米国における最も精巧で、最も優れた政治経済機構を支配しているのだ。米国に対する日本のキャンペーンは米国の政党やアメリカの産業、労働組合、特殊利害関係集団などよりも、ずっと広範かつ効果的に、極めて重要な1つの目的に奉仕するように仕組まれているのだ。(その目的とは)日本の会社やその経済的な利害に直接影響を及ぼすワシントンの政治上の諸決定、つまり、毎日数百万ドル(累計すれば数十億ドルにも達しよう)の帰趨がかかっているような諸決定の結果に影響を与えることなのである。

 日本の会社や政府は、競争相手よりも先にこういった決定についての知識を得たり、連携のよくとれたワシントンのインサイダーやロビイストのネットワークを利用したり、全米にまたがる地元コミュニティへの基盤の広いネットワークの賦活化をしたり、アメリカのジャーナリストが取り扱う経済問題の報道範囲を決めたり、大学やシンクタンクにいるオピニオンリーダーに働きかけるなどして、政治的戦略を会社や国の戦略に不可欠な要素にまで変形せしめていくことができるのである。

 この政治ゲームは、1980年代の大半の時期の場合と同様に、今でも毎日のように続いている。過去10年間に日本の利害関係者がスーパーコンピュータ、工作機械、ボールベアリングやローラーベアリング、光ファイバー、人工衛星、バイオテクノロジー、航空輸送、テレコミュニケーション、半導体、法律及び金融サービスなどで数々の勝利をその手に収めてきたが、その中で、最近起こった1つの実例こそ米国において伸びてきている日本のこの政治的影響力の実力と重要性を如実に示してくれるといえよう。その実例とは、トラックと関税率に関するものである。それは日本の諸団体がゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラーの3社並びに全米自動車労連(UAW)に対して巧みにその裏をかいて得た勝利でもある。そしてその間、米国財務省は関税分として年間5億ドル以上をも日本にみすみす奪われてしまったのである。

 1981年以来、日本政府は米国に輸出する乗用車台数に関して、いわゆる"自主的輸出規制"の枠を定めている。軽トラックには、こういった規制の枠はなかった。だが、米国が賦課する税率については乗用車とトラックの間には大きな差があって、乗用車は2.5%、軽トラックは25%である。1980年代初めから中ごろにかけては、日本はさしたる問題を起こすこともなく、この大きな開きのある関税を支払っていたが、1987年になるや状況は一変した。米国内に日本の工場が多数新設され、併せて軽トラックをファミリーカーとして使用する需要が伸びてきたので、乗用車の自主規制枠が満たされなくなってきた。この枠を満たすために、日本は軽トラックの輸出台数を増やした。だが、高い関税の支払いを避けるために、日本は軽トラックを乗用車扱いにする分類のし直しをやり始めたのである。

 1988年春になると、米国関税局は日本による関税規制の濫用に気づき、見直し手続きを起こし、関係当事者たちから意見を求め始めた。(ここで)"ジャパン・ロビー"が動き出したのだ。日本の利害関係者たちは、対応のためにロビー活動チームを拡張した。例えば、1988年10月、スズキはロバート・トンプソンを雇用したが、このトンプソンは、1980年代に副大統領ジョージ・ブッシュを補佐していた、コネの広い共和党のロビイストである。

 日本のキャンペーンは、1988年夏、ジェームス・インフォーフ議員の一通のレターから始まった。下院議員30名、上院議員11名の連署を得て、関税局長ウィリアム・フォンラーブに対して、軽トラックを分類上乗用車に含めるように要請したのである。インフォーフはこのレターに追い打ちをかけるべくフォンラーブを自らのオフィスに呼びつけ、見直し手続きがとられた理由の説明を行わさせた。フォンラーブはインフォーフ議員のオフィスに来ると、そこに同議員と並んでジョン・レームが同席しているのを知った。レームは、ジョンソン政権時代にホワイトハウスの貿易交渉特別代表部の元法律顧問を務めた人である。レームの弁護士事務所は、日本その他の外国の自動車関係者を代表するとともに、アメリカの自動車輸入業者をも代表していた。インフォーフ議員の賛同もあって、レームはその会合が終わるまで同席していた。インフォーフとレームは、ともにフォンラーブに対して軽トラックの分類変更については追求しないように懇請したが、フォンラーブは関税局の意思決定過程を勝手に先に行ってしまうことを拒否した。

 1989年1月4日、関税局は軽トラックを乗用車としては分類はできない旨の決定を下した。その後のインタビューでフォンラーブは、この決定について次のように述べている。「こういった車両はトラック用ボディーの上に建造されている。トラックとしての特性も備わっている。大半はトラック事業部で製造されている。広告するときも、トラック、オフロードの走行車両、バンあるいは貨物を運搬できる車両となっている。日本は長年にわたり、米国に輸入するときはトラックとして認定していた。私の祖母ですら駐車場に入っていって、乗用車とトラックの違いを指摘することができる。どう見てもこれはトラックである」

 この決定に対する日本の関係当事者たちの反応も早かった。世界蔵相会議の席上で日本の大蔵大臣はドイツと英国の蔵相(どちらの国もこの決定で影響を受ける車両の台数が少ない)を説きつけ、フォンラーブの上役である米国財務長官ニコラス・ブレディにアプローチし、その決定に関して正式に再考するようにと頼み込んだ。ブレディ長官はこれに同意し、関税局の決定があった9日後に、この決定は延期となった。