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トムソンの会長兼最高経営責任者としてアラン・ゴメツは世界中で最も競争の厳しい市場であるエレクトロニクス分野に注力した経営を行っている。ある意味では、この注力は1つの遺産でもある。しかし、2つの重要な事業領域――家電及び半導体――におけるトムソンの存在は、大胆かつ並外れた最近の意思決定が反映されたものである。
多くの欧米企業がこれらの事業から撤退したり、すき間市場へと退きつつあるまさにそのときに、トムソンは、そこに断固踏みとどまり戦うことを表明した。1987年、ゴメツはトムソンの医療機器部門であるCGRプラス8億ドルと交換で、GEのRCA家電部門を手に入れた。同じ年、彼はトムソンの半導体部門とIRIのそれとを合併し、半導体産業でのあらゆる領域で競争を展開すべく、50対50の合弁会社SGS-トムソンを設立した。手短に言えば、トムソンは自社の競争力のみならず、現在大きなリードを奪っているより強力なライバル――そのほとんどがアジアの企業だが――に追い付くための自社の能力にも賭けている。
ゴメツ自身がまず指摘しているように、戦いは始まったばかりである。しかし、ライバルに奪われていたリードの距離を考えれば、トムソンは見事なレースを展開しているといえる。
1981年、フランスの社会党政府はトムソンを含め5つの企業グループの国営化を行った。1982年、ゴメツが同社の指揮をとるよう政府からの指示を受けたとき、このコングロマリットは倒産の危機に瀕していた。彼は素早く行動を起こし、一般経費の削減、一貫性のある経営システムの導入、そしてリストラクチャリングを行った。伝統との決別を図るため、彼は子会社やキーとなるスタッフ機能の指揮をとらせるべく新進の管理者(大半が40歳以下)を登用した。一方、海外市場への進出が主要な経営課題となった。また、進行中の業務の合理化もそうである。トムソンの本社ビルも同社の新たな様相を反映していた。つまり、本社スタッフはハウスマン通りのエレガントな19世紀の建物から、郊外の複合ビルLa Defenseの近代的なオフィスタワーへと移動した。
こうした変化の中、不変のモノが現れ出した。つまりそれは、システム、秩序、さらには数値を重視する気持ちであり、手に入るものならどんな選択肢でも利用するフレキシビリティーでもあり、勤勉や学び取る能力の尊重でもあった。トムソンにとって、そしてゴメツ個人にとっても、これらはグローバルな企業競争というレースにおける指針となる原理となっている。
政府から指名された人間ではあるが、ゴメツは第1級のマネジャーである。1970年からトムソンに来るまで、フランスのガラス・建設関連製品の大手企業であるサン-ゴバインでガラス・包装部門の財務担当副社長から会長兼最高経営責任者まで昇りつめていた。フランスの官僚エリートの名高い修練場である国立行政学院で学んだあと、ゴメツはサン-ゴバインに移るまでほんの数年だけ財務省に勤めた。
HBR(以下略:ゴシック部分はHBR):10年前、トムソンは世界の家電市場にまだ登場していなかった。それが今はリーダーの一員となっている。その間、何が起こったのか。
アラン・ゴメツ(以下略):我々がまず最初にしたことは、家電業界に注力することであった。それは、わが社が電話交換機、医療機器、接続機や電球のバルブといった手を引こうとしている分野についての難しい選択を行うことを意味していた。また、それは我々が取り組まなければならないこと――そんななにたくさんはなかった――について冷静に判断することを意味していた。伝統的に、トムソンは洗濯機、冷蔵庫、そして他の家庭用品などを製造する"大型家庭用器具メーカー"であった。それが今から25年前、家電ではない――その当時はだれもそう考えなかっただけではあるが――ラジオ、レコードプレーヤー、そしてテレビといった数種の製品を開発するようになった。長年の間、RCAは、他の追随を許さない世界のリーダーであった。そして我々は負け犬にすぎなかった。もし、家電業界の競馬があったなら、我々に賭けるような手はなかったであろう。それが今や我々がRCAの家電部門を所有しているのである。
それ以前にも、我々はわが社のヨーロッパにおける競争相手のかなりの部分を吸収していた。まず初めにフランスの会社を買収し、続いて、業界の再編が進む中、ドイツのテレフンケンやサバ、そしてイギリスのファーガソンをも手に入れた。
ということは、家電における基本戦略はマーケットシェアを伸ばすということだったのか。



