アメリカ企業は科学技術がどのような形で産業競争力に影響するかを理解する必要がある。コンピュータ・メモリのようなハイテク製品ですら、1980年代初めにアメリカの貿易黒字は急激に縮小し、1986年には赤字に転じているのである。このような事態が、世界で最も強力な科学を誇り、ノーベル賞受賞者を輩出し、科学の分野で数々のブレークスルーを生んだこの国になぜ起こったのだろうか。

 その改善策に関する議論は往々にして誤った問題に向けられている。すなわち、基礎研究への投資の対GNP比率が最も高い国はどこか、技術者と科学者が最も多いのは、加えてアメリカ企業は、最大のライバルである日本に比べて依然として研究開発支出の高いことが多くの統計に示されていると同時に、極めて多数の外国人学生がわが国の大学で上級資格を取得しているという憂慮すべき報告もある。

 現実には、アメリカは今世紀の初めに世界の国々に教示していた厳しい教訓、つまり企業が設計と生産管理の面で卓越していれば、科学領域で卓越していなくとも製品での主導的地位を構築するのは可能だということを今になって逆に学びつつあるのだ。

 アメリカは、科学をリードする国となるはるか前から、産業面で主導的勢力となっていた。1920年代を通じて科学の首都はヨーロッパの大学であったが、そのころすでにアメリカは労働生産性と1人当たり所得で図抜けた存在であり、最大の貿易黒字を誇っていたし、ほとんどすべての産業尺度からみて卓越した存在であった。それが現在では、アメリカの大学が科学の中心となり、日本が貿易黒字を蓄えている。

 製造技術において現在日本が優位にあるとすれば、アメリカの管理者にとってはあまり喜ばしいことではなかろう。慎重な楽観主義の根拠をそこに読み取ることはできないにしても、その方向にもっていくべきであろう。今現在、日本企業が総じてアメリカ企業に対して有利に競争を進めているとしても、彼らは我々が修得できないことをやっているわけではない。

 筆者は、卓越性を禅に通じるような新しい視点からとらえること、消費者に貯蓄を促すための(恐らく)確固とした奨励策、基礎教育制度の改革、あるいは科学と企業家精神の文化的な結合など、わが国の主要企業が再びその優位を回復するために必要な抜本的な"マクロ的"改革についていやというほど読んだ。これらのどちらかと言えば根本からの変革を求める声には、重要な洞察と有益な長期的示唆が含まれているとはいえ、やはりポイントがずれているといわざるを得ない。むしろ今、我々に可能なことが数多くあるのである。

 本来ならハイテク企業は第一の課題として、製品開発プロセスの運営方法について着手可能な"ミクロ的"改革に熱心に取り組んでいなければならないはずである。彼らは、製造指向型設計、顧客へのより迅速な製品の提供、最善のノウハウを最も適切なときに製品開発に吸引することなど、相対的に小さな事柄、従ってすぐにでも実行可能な事柄に集中しなければならない。

 創造性を醸成する環境を完成することは、それはそれで実に素晴らしく、また歓迎すべきことである。だが技術志向型企業がまず第一に心がけるべきことは、最善の第1版をつくるのではなく、最高の第4版を出せる体制を整えることである。最初にだれがつくったかは、たいていの場合ほとんど問題ではない。

 企業にとって、こうした課題は急を要すると同時に極めて困難なものではあるが、決して神秘的なものではない。近年では日本の企業幹部が全体としては、このことを我々よりもうまくやっているとしても、彼らの行動には特に理解を超えたことがあるわけではない。異国の企業文化を教えているビジネススクールと同じ運命を我々がたどる必要がないのは確かである。アメリカの管理者が企業に期待されている行動にいったん気づいたら、部下をその方向に動かすべく知恵を絞り始めると思われる。問題は何をなすべきかについて明確な判断を持つことにある。

イノベーションに関する2つの考え方

 梯子(Ladder)

 これはイノベーションから生産に至る関係についての最も一般的かつ合理的な概念であり、新しい科学的知識を段階的に下ろしてきて、最終的に極めて革新的な新製品を創造するというものである。すぐに思い浮かぶ例としては、マンハッタン計画やデュポンのナイロンの開発などがある。筆者がこのプロセスを一種の"梯子"と考えているのは、原子物理学や有機化学のような科学研究の蓄積が最高潮に達した段階で有用物が発生する、つまり実用性の増大に向けて段階的に移行するプロセスととらえているためである。科学は、ビクトリア時代なら"進化"と呼ばれたような成果を生み出す。