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一社員がエイズに
1986年のレイバー・デイの前日の金曜日、公共衛生クリニックエイズ・テストの結果報告を神経質に待っていたパシフィック・ベルの修理マン、デイブ・グッディナフは、自分が知らされるであろうこと――自分はエイズ患者だ――をすでに半分かた知っていた。胸部に印を発見して以来、7カ月ほどの間、彼は疑いを抱いてきた。かかりつけの医者は、それは仕事の際にできた挫傷だろうと片づけたが、紫がかった印が全身に広がり始めたとき、グッディナフは別の意見を求めた。2番目の医者はほとんど即座にその兆候を"KS"(エイズとしばしば関連づけられるガンの1タイプであるカポジ肉腫)であると認定、テストの結果もその診断を裏づけた。
エイズの疑いというのは、他の病気とは確実に異なる運命の刻印である。「私は打ちのめされた」とグッディナフは回想する。エイズ告知が何を意味するかを見極め始めるにつれ、1つの疑念が繰り返し頭をよぎった――自分は仕事に復帰するだろうか(できるだろうか)、という疑念が。
グッディナフはパシフィック・ベルで勤続10年になり、その勤めは彼にとって多大な意味を持っていた。彼は自分の仕事ばかりか、仕事仲間も気に入っており、自分がホモセクシュアルであることを隠す必要がないという事実を本当にありがたく思っていたのだった。以前、オハイオでは、ゲイであることがバレたとき、彼は保護観察官の職をクビになった。だが、サンフランシスコは別だった。パシフィック・ベルという電話会社は、ミドル・アメリカの砦とも評された企業であり、電話帳ほども厚い規則書に基づいて業務を行っていたとはいえ、1970年代後半には、自社従業員のかなりの数がゲイであるという現実にいかに取り組むべきかを学び始めていた。
グッディナフにとって、エイズ確定は、仕事にとどまることがいかに重要かという気持ちをもっぱら強めるものであった。「もし職を離れたら、それはまるでこれから生きなければならない時間の長さにリミットを課すようなものだろう」と当時考えたことを回想する。長年、米国通信労働者組合の委員で、組合内のゲイ問題のスポークスマンを務めている友人のティム・オハラは、職を辞めないよう、そして会社の幹部に自分がエイズであることを告げるようグッディナフを励ました。
当初はグッディナフも、2番目のアドバイスには抵抗した。「おれはだれにも知らせないつもりだ」と彼は力説したが、数日後には心を変えた。「このようなことをいつまでも心の中に隠しておくことはできない」と彼は決意した。「それではまるで際限なくトイレに閉じ込もっているようなものだ」。
グッディナフのために、オハラは監督職のチャック・ウッドマンのもとに行った。ウッドマンは、サンフランシスコの電話システムの保守管理に当たっている作業本部の750人の労働者の監督を務めている人物であった。「デイブが仕事を続けるのに必要なことを我々は何でもするつもりだ」というのがウッドマンの答えであった。そして彼は、グッディナフ支援を取り付けるよう、グッディナフの直接の上司に要請した。その週末、グッディナフはお礼の電話をウッドマンに入れた。「チャックがどれほど心配していてくれているか、彼の声つきから聞き知ることができた」と彼は回想する。「彼の言葉のおかげで自分は持ちこたえることができたのだ。『この会社でいつまでも働いてくれたまえ』と彼は言ってくれたのだった」
チャック・ウッドマンはエイズ患者にずっと以前から関心を抱いていたわけではなかった。タフ・ガイで、ジョン・ウエインやジョージ・パットン(訳注:第2次大戦中の連合軍で活躍した将軍)を理想の人物とする自称レッド・ネック(南部の農民風人物)というのが、部下たちのウッドマン評であった。熱心なモルモン教徒で、8人の子と、20人の孫を持つウッドマンのエイズに対する態度が変わり始めたのは、1985年、彼がサンフランシスコに転勤になったときからであった。彼は、エイズが原因で死んだある労働者の葬儀で、いかに心を動かされたかを覚えている。
「牧師が、エイズ患者がのけ者にされる現実に自分はどれほど怒りを覚えているかということを語るのを聞いているうちに、自分もその怒りをある程度感じ始めた」とウッドマンは言う。「ホモセクシュアルの道徳的問題とは完全に切り離して考えるようになったのだ」。
もっと学ぶためにウッドマンは、知人で気の合っていたティム・オハラに相談を持ちかけた。オハラの手助けで、ウッドマンは完全なエイズ教育を身につけた。知識によって理解が深まり、理解したおかげで次第に恐怖心が和らいでいった。例の葬儀のあと、ウッドマンは疑問を発し始め、「我々は職場のエイズ患者のために何ができるか」と考えをめぐらした。「彼らが仕事を続けられることが必要なのだ」というのがオハラの答えであった。「それこそが彼らに生き続ける理由を与えてくれるのだ」。
ウッドマンは監督職の人たちと話し合いを始め、エイズ患者の従業員が働くには重症すぎる場合には、彼らへの訪問を始めた。ウッドマンや、会社の予防医学・健康教育部長のマイケル・エリクセンらを交じえたそれらの話し合いの中から、職場におけるエイズ対策の第一歩が生まれた。それはエイズ教育タスク・フォースといい、サンフランシスコ全域のオフィスや会社のガレージでプレゼンテーション(公開教育)を行っているサンフランシスコ・エイズ基金で訓練を受けた会社の看護婦やボランティアの労組メンバーから成るものであった。パシフィック・ベルの彼の上司たちはエイズをめぐる彼の率先行動を歓迎したが、彼を以前から知っている同僚たちはびっくり仰天した。「州中の仲間から多分半ダースぐらいの電話が来たと思う。『ウッドマン、おまえは何をやっているんだ。おまえはあのゲイの奴らが好きにでもなったのかい』と言ってくるのだ。そこでおれは言ってやったものだ――『こうした人生にかかわり合いを持つまでは、君も理解できないだろう。だが、だれか自分の知っている人間がエイズだということになれば君も積極的に取り組むようになるだろう』とね。事実そのとおりなのだ。その連中のだれかが後日、電話をしてきて、『実はエイズにかかっているのが身近にいたのだ。で、おれは何をしたらいいだろうか』と言うのだった」。



