1990年代において意思決定は、今日よりもはるかに芸術的になる一方で、科学的でなくなっていくであろう。世界は複雑かつ不確実さの度合いをますます早めていくばかりか、旧来の意思決定モデルは衰退していくであろう。しかも、この衰退傾向が加速されることさえ予想できるのである。

 このような状況下で、経営者たちが、ビジネス環境を知るための情報を、公開資料のように思うままに収集できないかと願ったとしても、その希望は実現しそうにもない。もし、そうなったら、情報の流れは大洪水と化し、その中でマネジャーたちは溺死しかねないであろう。情報の奔流の中から関連データを取り出すという作業は、ますます、くじけそうなくらい困難な課題になっていくのである。ホワイトハウスのスタッフをはじめとして、意思決定者たちが困難な課題に悩み抜いた末、批評家や評論家などへと転身していくケースがしばしば見られるのも無理からぬことであろう。

 しかしながら、このような大変な混乱の中から、新しい意思決定モデルが展開しつつある。それは、明白なものというよりも、むしろ、絶えず改訂し続ける百科事典の図書館ともいうべき、複雑きわまりない世界によく適合したモデルである。

 この新しい方法は、実際、新しい衣に包まれた昔ながらのやり方なのだが、経営者たちは、しばしば、ほんのわずかな情報をもとに事を進めなければならず、さらに、彼らには十分な調査や分析を行う時間がない、ということを前提としている。このモデルを筆者はHumble Decision Making(自在流意思決定)と名づけている。

合理主義的意思決定の破綻

 もっと単純な時代にあっては、合理主義がビジネス上の決定を支配する原則とみなされていた。合理主義者たちによれば、意思決定者は、目標に達するあらゆるルートを探索し、個々のルートのコストや効果に関する情報を収集し、多様な代替案を組織的に比較検討し、その中から最も有効な手段を選択するべきであり、また、それが可能であると主張されていた。経営者たちは、このようにして選択された道にむけて、リーダーシップの全能を投入することが求められたのである。その原則は"実行!""困難に負けるな!"ということであった。あたかも、イスラエル軍の指揮官が、部下にバリケードの襲撃と奪還を命じる際、"貴様たちが上から行こうが、下から行こうが、回って行こうが、通り抜けて行こうがかまわない。あの目標を日暮れまでに奪還せよ"というのと同様な強引さが要求されたのである。

 今日の典型的な経営者たちは、意思決定をこのように攻撃的に遂行していくのは極めて困難だと考えている。例えば、アメリカ経済を十分に理解するということは、もはやありえなくなってしまった。ブラジルや、クウェートや、韓国あるいは、そのほか多くの国々の出来事が個々の意思決定に影響を与えかねなくなっているのである。

 また、情報分野や、生命科学あるいは超伝導の分野などにおいて衝撃的な革新がもたらされれば、多くの会社にとって大事件となりかねない。予期しなかったような事態の進展が、原材料から健康管理に至るまであらゆるもののコストに影響を与えうるのである。

 例えば、1970年代のオイルショックや、1980年代のエイズの流行は、その典型といえよう。さらに、経済予測は以前と比べてはるかに信頼性が低下しつつある(それとも、以前は信頼できると思っていただけなのかもしれないが)。各種の規制撤廃、コンピュータを中心とするプログラムソフトの国際間取引、あるいはアメリカ経済における外国ホットマネー(短期金融通貨)など、あらゆるものが不確実性を増加させているのである。

 こうなると、合理主義的な意思決定者は、率直にいって以前と比べ、より一層多くを知ることが必要となる。もちろん、コンピュータによって、情報を収集し加工する能力は増加してきてはいるが、しょせん、知識と情報は違う。知識の生産は、ほかの製品の生産とよく似ており、まずは、事実という原材料から始める(しばしば過剰供給されるが)。その後、原材料を分類したり、表にまとめたり、要約したりというような手段によって前加工し、それから、相関や比較という組み立て工程へと進めるのである。しかしながら、最終製品としての結論は、簡単には生産ラインから出荷されない。実際、どのような知識であろうとも、その知識について、だれもが容易に理解できるような形で説明してくれる体系(もしくは理論)がなければ、日々蓄積され続けるデータの山の中に埋もれてしまい、だれの目にも届かないことがよくあるのだ。

 新時代においては、経済学を例にとっても、いわゆる通説が、日増しに通用しなくなりつつある。人工知能(AI)が、いつの日か、知識の大量生産を簡単にしてくれるだろうが、少なくとも2000年以前ではないことは確かである。