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自己満足はいかなる組織にも生じる問題である。だが、ツバぜり合いの競争相手に追われ、厳しい意思決定と不断の警戒を余儀なくされるということがない場合、自己満足はとりわけ問題となる。自分の経歴の中で、二度もこの問題に直面した私にはこのことがよくわかるのである。
最初の経験は、住宅・商業ビル・産業建造物用の構造材メーカー、トラス・ジョイスト・コーポレーションの最高経営責任者を務めていたときであった。わが社の特許製品は市場を押さえ、売り上げも順調に増大していたことから、ゆったり構えて、自社の優位を守ることに専念したとしても、これほど容易なことはなかったであろう。だが、わが社は一段の飛躍を目指し、5億ドルの新しい市場獲得を狙ったのである。それは、研究開発から流通までの業務の全面的再検討を必要とするものであった。とはいえ、それを可能にしてくれたのは、マネジメント・テクニックというよりは、子供のゲームのように思われかねない1つの試みであった。つまり、わが社の動きの1つ1つに挑戦してくる幻の競争相手を想定したのである。
ところで、陸上競技の一流選手はトレーニングの際、しばしば自分の直後に見えざる競争相手を想定するものだ。トラス・ジョイスト社の場合も、的を定めるべき明確な競争相手がいなかったために、私を含め経営陣は、自己満足排除のために、ランナーと同じ手を使ったのである。
その後、売り上げ20億ドルの法定独占事業体、ボネビル電力公社(BPA)の監督官に任命されたときにも、その手法が公共部門でもやはり有効であることを発見した。だが、BPAでの問題ははるかに深刻で、自己満足的考え方はもっと深く根を下ろしていた。
BPA監督官任命を受けて、1981年5月、オレゴン州ポートランドに私が行ったころ、同公社は、健全で安定した専門集団的組織との評判を得ていた。ところが実際は、原子力発電所に投資した巨額の金融資金・機関資金のために、同公社は難局の寸前まできていたのである。だが、そのことはまだ、公社のだれにも明らかとはなっていなかったし、私にもすぐにはわからなかった。私の眼に映ったのは――そして、私を困惑させたのは――BPAスタッフのどっかりと腰を据えた自己満足ぶりであった。過去の成功は今後も容易に反復することができる。このような大組織が破産することなどまずあり得ない、と彼らは信じ込んでいたのである。
たとえ同公社の業務が、コロンビア川とその支流にある連邦政府所有のいくつかのダムで発電した電力を売り、ワシントン、オレゴン、アイダホ、モンタナの各州の120以上の公共・民間の電力事業体に送電するという旧来からの業務だけに限られたとしても、やはりそのような考え方は正当化され得ないものであっただろう。だが、BPAが販売している電力は水力発電によるものだけではなかったのだ。
1970年代初期、同公社はワシントン・パブリック・パワー・サプライ・システム(WPPSS)が建設・所有予定の5つの原子力発電プラントのうちの3カ所の電力を購入することに合意していた。その上、BPAは最初の3プラントであるワシントン・ニュークリア・プロジェクト(WNP)1、2、3号の債務支払いを保証していたのである。ところが、1982年までに、3プラントの建設コストは、当初の予算30億ドルから、見積もり140億ドルへと急増、また、同公社の既存債務に対する年間金利支払い額も、7億ドル以上へとウナギ上りに増大した。これらのコストに、北西部の経済軟調が重なって、コロンビア川発電システム建設のため、数年前に財務省から借り入れた80億ドルの割賦償還と利子支払いが不面目にも遅れるという事態に追い込まれたのだった。
BPAの外部のいくつかの出来事も、自己満足の危険性を強く警告していた。とりわけ劇的だったのは、1981年、もはやそのための資金が確保できないという理由で、WPPSSがWNP4、5号(この2プラントについてはBPAは保証人となっていなかった)の建設中止を決定したことであった。おおかたのご記憶にあることだろうが、この出来事でWPPSS転じてWHOOPS(当時金融界がこう呼んだ;WHOOPSは、喚声を表す言葉で、"ワー、大変だ"といった意味)たらしめ、ワシントン州最高裁による、両プラントの発行債を下支えする契約は履行不可能との同情的な判決の後、WPPSSは米国史上最大の商業債デフォルトに立ち至ることとなった。BPAは直接関与していたわけではなかったものの(資金面の参加はなかったのだから)、深刻な影響を被った。その直後から、ウォール街はWNP1、2、3号に関する通例の融資を止めてしまったのである。
それと同時に、顧客が、BPAの電力料金に対する不満の声をますます高めつつあった。元来、BPAの料金はアメリカでも最低水準で、設立以来、最初の40年間は大した値上げもなかったのであるが、インフレと、WPPSSの原子力発電計画コストの2つの圧力が相まって、70年代、80年代初期に急騰することとなった。それに対応して、怒れるユーザーたちは抗議グループを形成し、それ以上の値上げに対し活発に抵抗した。



