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1977年秋に私は、27歳になって、ペンシルベニア大学のウォートン・スクールのMBA(経営学部大学院)コースに入学した。私も今となっては、企業からやってくる採用担当者に好印象を与えるという緊急の必要もなくなったので、私は正直に次のことを告白できる。すなわち、私がもっとも憎み、もっともフラストレーションを覚え、そして私がもっともいらいらを感じ、恥ずかしく感じたのは、私自身きわだった成果をあげられなかったという事実である。私は一所懸命努力したけれども、大学院で教えられる内容の多くは非常に難しかったし、その一部においては自分でわかったふりをすることすらおぼつかなかった。したがって、優等をめざすよりは並が私の目標となった。私は一所懸命勉強し、かつ、いろいろ心配した。自分がばかなのではないかと思った。
さらに私をみじめにしたのは、私自身がまったく場はずれな存在に感じられたことである。MBAコースの仲間たちの多くは、学部の段階で、会計学のような実際的な分野での知識をみがいてきていた。あまり実際的な学問をやってこなかったといっている人たちでも、経済学を専攻していた。私は英文学の専攻であった。だから私の仲間たちが、バランス・シートやミクロ経済学の知識を備えてビジネス・スクールにやってきているのに対して、私はワーズワースの詩、サミュエル・ジョンソンの散文、I. A. リッチーズやF. R. リーヴィスの批評の知識をビジネス・スクールにもち込んできていた。
ウォートン・スクールに入学し、方程式を解き、数学系の試験の難問と格闘し続けた経験からすでに9年間が経過した。人文科学では弁舌さわやかであることが大きな助けとなる。例えば、D. H. ローレンスやジェーン・オースティンを一度も読んだことがなくても、この2人の結婚観について比較せよといった試験問題では、なんとかごまかしても合格する可能性は大きい。しかし、ビジネス・スクールではもっとやっかいな要求が待っている。会計学などの試験では、継続的在庫管理と定期的在庫管理の差を覚えていなければ、いかに知能が高くとも、いかに雄弁でも合格できない。
私はともかく大学院生活をなんとか生き抜いてきたが、その時期はけっして快適な期間ではなかった。私は、そのころ何度も夢にうなされて目をさましたが、その夢のなかでは私は大きな黒い鉄玉を足につけられ、学校のコンピュータ室の私の椅子に鎖でしばりつけられていた。頭上の電気は、近代的なコンソールにはめられたテレビのスクリーンにギラギラ反射していた。コンピュータのターミナルは、デジタルの動力でブーンという音を出し、キーボードはカチカチと音を出し、プリンターはパタパタと動き続けていた。夜の空は私の20ヤードうしろの大きな窓からぼうっと見えていた。私の右手では、時計がちょうど3時を告げていた。F・スコット・フィッツジェラルドが書いたように、「魂にとってもっとも暗い夜は、つねに午前3時である」。
そんな時間にもかかわらず、コンピュータ室は、自分のやっていることを十分理解し、自分に課せられている足かせを気にしていないように見える学生たちでいっぱいであった。私のほうは、意味のよくわからない問題を解こうとやみくもに苦闘し続けていた。私は突然、私の鎖が引っ張られるのを感じた。下を見ると、私の古い友達のハックスベリー・フィンであった。彼はいつもどおり、よごれた服をつけて私をビジネス・スクールから救出するためきてくれたのである。私たちは手に手をとっていかだでミシシッピー河を下り、われわれの前に開けた領域へ急ごうと考えた。
私は重い鉄玉と鎖を引きずりながら、ハックのうしろについて、出口に通ずる階段をつま先立ちで降りはじめた。出口のところで、いつもの守衛ではなく、愛想のいい老人に呼びとめられた。この老人は、その古めかしいコート、ゆるく結んだネッカチーフ、それにウーステッドの長靴下からバックル付きの靴まで、まったく植民地時代のアメリカの服装そのものを身につけていた。老人はベンジャミン・フランクリンであった。彼は自分の眼鏡をはずさず、あごを引き、腕を広げて、不気味にハックのほうへ近づいてきた。2人は、フウフウ息をはきながら、暗やみのなかで格闘しはじめた。私自身は、彼らが私の魂のために闘ってくれているのだということが理解できた。
私の夢は、有名な2人が格闘し、その脇の暗やみに私が身をすくませて立っているというところでいつも終わった。私が目ざめると学校が待っていた。
フィラデルフィアに一度でも住んだことがある人にとっては、このもっとも著名な市民の亡霊が、いまでもこの都市のどこにも出没していることに気づくはずである。「ベンジャミン・フランクリンによって創設されペンシルベニア大学」という銘碑には、私がヴァンス・ホール(ハックとベンが私の夢のなかで格闘していた建物)のドアを通り抜けるときに毎朝お目にかかることができる。夕方の薄くらがりのなかで、カレッジ・ホールの歩道からヴァン・ペルト図書館を見つめる形で立つフランクリンの銅像の下を、私は毎日通り抜ける。私の妻はフランクリン・ビルディングで働いている。私たちは、ベンジャミン・フランクリン・パークウェイを抜けて家に帰る。
私は、このようなサインがきっと何らかの意味をもっているのだろうと考えた。ピルグリム(聖地巡礼者)が自らの魂の救いを求めて聖地に旅すると同じ動機をもって、私はマネーの秘密を解くために、このウォートン・スクールにやってきた。どういうわけか、私は、きっとベン・フランクリンがこの謎を解く鍵を握っているに違いないと考えていた。でもどんなふうにか。私はフランクリンについては、学校の児童がもっている程度の知識はもっていた。すなわち彼は見習として修業し、凧を上げ、独立宣言にサインし、フランス側を受けいれたといった事実である。私はまた、倹約、つましい生活と勤勉についての格言を広めたのもフランクリンであることを知っていた(私が小学校3年生ぐらいのときに熱心な先生からいやというほど私の頭のなかにたたき込まれた)。彼はまた、感情の経済学と同じような意味で、言葉の経済学という意味からも「時は金なり」を宣言した人物であった。さらに、彼の著書『富への道』という有名なエッセイによって、アメリカ人に富への道を教えた。ところで、フランクリンの創った大学に学ぶ私と私の同僚たちが、実際に彼の残した遺産に触れながら、しかも彼のイメージに合うようにわれわれを修養させていないのだとしたら、われわれはここで何をやっているのか、ということになろう。
もしマネーが問題であるのだとしたら、フランクリンこそ、そのキイを握っているはずである。そこで私は、ウォートンでのわびしい、困難な時期のある寒い夕方、フランクリンの銅像と同盟していこうと心に誓った。しかし、この同盟も長続きしなかった。ビジネス・スクールでは、瞑想している時間も、問題を批判している暇も、反省や未来予測をしている時間もなかったからである。『富への道』を読んでいる時間さえなかった。私は、自らが継続的と定期的在庫管理法の差がしっかりわかるまでは、ご先祖の発見の勉強は待て、と自分にいいきかせた。しかし、ご先祖の発見は重要であることにはまったく疑問をもっていなかった。フランクリンの亡霊からおほめの言葉をいただくためにも、私の内部で葛藤している魂を鎮めるためにも、私自身暗やみから飛びだして、この老人と格闘してみる必要があるだろうと感じた。



