複雑な非消費財製品を生産している中小企業もしくは事業部門のマネジャーは、往々にして広告の責任を背負わされるのを嫌がるものである。こうした製品(科学装置、コンピュータ、ソフトウェア、高度な資材、工作機械さらにはオフィス・オートメーション・システムズ)は、相手に理解してもらうべく努力しなければならない。こうしたマネジャーの大半は科学、技術もしくは財務に関する訓練を受けていて、とかく測定とか計算といった仕事のほうが好きなのである。広告のような非データ的な分野というものは彼らにとって、突然天才というフラッシュがたかれたりする、結果があやふやな、なんともうす暗い野原に見えてくるのである。それだけに、こうしたグラウンドは、そうしたことを呑み込んでいそうに見えるスタッフで固めた、専門の部門や代理店に任せておいたほうがよい、という気になってくる。

 実は、こうしたマネジャーたちは間違いを犯しているのである。彼らは、いかに多くの資金が広告に投入され、いかに多くの情報(この種の高度の製品の販売カタログ作りにかかせないもの)が広告に必要とされているかを忘れているのである。一般的に企業は総売上げのおよそ3%をプロモーション(カタログ、展示会などを含む)の費用に当てている。かりに年間2000万ドルの収入があるとすれば、60万ドルという金額になってくる。

 プリント・メディアの広告費は全体のおよそ3分の1となっている。広告関係者は広告コピーが書けるほどの技術的な知識は持ち合わせていないのに、こうした製品に関する広告ポリシーを作りあげたり、広告キャンペーンの企画を考えたりしているのである。

「戦争は、軍人だけに任せておくには、あまりにも深刻な事態である」。これは、かつてフランスの政治家、ジョルジュ・クレマンソーが述べた言葉だが、その意味では広告もまた専門家に任せておくには、あまりにも重要なことがらなのである。

測定の難しさには注意せよ

 確かに広告の成果というものは、あやふやなものである。その効果を測定することは、ほとんど不可能である。

 在庫の計算をするよりは人間の反応を測定するほうが難しいことは、誰でも知っている。それにもかかわらず、広告の専門家たちはクライアントに自分たちのサービスを信頼してもらえるというだけでは収まらぬ、という気持ちを強くもっている。そこで彼らは広告効果を測定するシステムをいろいろと開発している。その多くは論理的であり、なかには説得力をもつシステムもあるが、いずれにしても、これらのシステムは、すべてコンピュータのプリントアウトを生み出し、それによって、この問題に対する合理的な雰囲気を生み出すうえで役立っている。とはいっても、この種のシステムの大半は見かけ倒しのものである。

 広告の価値をそれがもたらすセールス・リードの数、例えば広告の読者サービス番号に丸をした人の数で測定できるであろうか。かりに数千のセールス・リードを求めるとして、広告をそのようにデザインすることは可能である。要するに、無料のガイドブック、例えば「簡単にわかるデジタル・コンピュータ」というタイトルの16ページのブックレットなどを提供すればよい。無料の資料というものは、常に大きな反応を引き起こすからである。例えば番号に丸をした人には抽選でビデオレコーダーが当たるといった文章を付け加えるならば、反応はさらに大きくなる。こうした欲につけ込んだような策略を用いないとなると、セールス・リードの数は広告の表現技術よりは製品の魅力、目新しさしだいとなる。ただし広告が理解しがたいほど下手な場合は、この限りではない。

 広告について読者のうち、どれくらいの人がそれに気づいたり、記憶したりしてくれるかは測定が可能である。とはいっても広告に対する記憶の度合いと、その製品を買ってくれる人びとの数との間の関連性を確立することが、果たしてできるであろうか。それは、むりというものである。好成績をあげようと思うならば、ふくろうが赤ちゃんを連れて飛び去るといった写真を広告につければよい。これならば読者は誰もがふくろうのことに気づき、記憶するであろうが、それで製品を買うということには必ずしも結びついていかない。

 見た者の何パーセントが広告を最後まで見続けるかということで広告の効果を測定する方法は、どうであろうか。広告の文章が「わが社の機械はナンバーワンです」というだけのものであるならば、広告を見始めた人は最後まで見てくれるであろうが、それで果たして製品について心の底から理解してくれる人がいるであろうか。

 以上の論点がいずれもぴんとこないということであれば、もうすこしわかりやすい話(収益)をしたほうがよいかもしれない。最近、ある会社が広告代理店を通じて、かなりの広告予算を投入した。3年の間に売上げは2倍になり、利益は3倍となった。では、その理由は。広告のためか。それとも広告を打たなくてもそうなったのか。広告内容は、こうした成果とは無関係であったのか。こうした疑問を確かめる方法は、ないのである。