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日本の企業システムに関する著作を発展させるものとして、著者は、取締役会の役割に焦点をあてた。
企業の経営幹部と専門経営者に関する一連の論説に基づき、著者は、実質的にすべての日本の取締役会が"社内"取締役会であり、現実の権力は企業のトップ経営者と、融資者かつオーナーである銀行の手に握られ、報酬は社長によって決定されるとともに、公表されないことを指摘する。
しかし環境変化がこうした支配構造にも否応なく迫ってきていることを明らかにしている。
日本企業における企業支配のプロセスは、その取締役会の役割と同様、アメリカ企業とは大きく異なっている。日本の取締役会はほとんど例外なく、日本の会社法に基づいて開催された正式かつ適法な株主総会において、株主によって選任された企業内部の人間によって構成されている。
しかしながら、もし企業支配というものが、企業のオーナーがそれを通じて経営陣に影響力を行使するプロセスであるとするならば、日本の取締役会にはこの役割はほとんど期待されていないといってよい。経営とは峻別されるべき所有という概念は、取締役会の席上では無視されている。企業の支配プロセスは、企業の上級実務経営者と主な機関株主の間で、舞台裏で操作されているようである。
日本におけるこのような取締役会の役割と支配プロセスを理解するためには、まずアメリカと日本の企業の間の2つの大きな相違を認識しておく必要がある。
まず第1に、アメリカの公開されている大企業とは対照的に、日本の大企業の所有権は一握りの大規模な機関株主の手に集中している。典型的な例として、ある化学関係の大会社をみると、個人株主は数の上では98%以上を占めるが、保有株式では17%に満たない。そして金融機関、これは主として銀行と保険会社であるが、これらが株式の59%を所有し、このうち10の機関が資本の44%近くを握っている。さらに大株主である銀行は、同時にその企業のメインバンクでもある。
株式と債権が少数の銀行と金融機関に集中しているというパターンは、日本ではごく一般的である。最近でこそ日本でも企業の株を所有する個人株主がふえてきているとはいうものの、所有という点では彼らはまだ微々たる存在に留まっている。ある日本の会長がいったように、「日本にはアメリカのような個人資本家はいないのである」。
第2に、よく知られていることだが、日本では労使の間にアメリカでは見られない一定の連帯感が存在する。労働者、管理者を含めて、日本の企業はそれ自体がひとつの社会的存在なのだという意識がある。
その結果、労使の間に深刻な対立が存在することもなく、取締役会のメンバーは、株主の利害とまったく同様に、社員の利害にも責任があるという意識で事に当たることになる。日本の上級役員のなかには、その昇進の過程で労組の指導者を一度ならずつとめたことのある人が少なからずいる。したがって彼らは、会社の所有者に対するのと同様、労働者に対しても責任を負うという意識を持っている。こうした考え方は広く受け容れられている。



