販売から価値創造のプロセスへ

 マーケティングの進化を語るうえでわかりやすいエピソードがある。それは、私自身が経験してきたエピソードだ。企業経営者と対話をしていると、「恩藏さん、我が社はマーケティングが弱いのです。どうしたらよいでしょうか」という問いを投げかけられることがある。その時、経営者は心の中で何をイメージしているだろうか。

 2000年以前、こうした問いを投げかける経営者の多くは、販売力、広告コミュニケーション力、営業力などの弱さをもって、マーケティング力が弱いと考えていたようだ。過去のマーケティングの定義においても、「製品やサービスの流れを方向づけるビジネス活動」や「交換の実現」、「市場創造」がキーコンセプトだった。生産から販売までのバリューチェーンで考えると、販売に近い部分にマーケティングが位置づけられていたのである。

 ところが、1990年代の末頃になると、大きな変化が生じ始めた。顧客は、対価を支払って得る価値に対してより高い水準を要求するようになり、企業はそれに応える役割をマーケティングに期待するようになった。その結果、マーケティングのキーコンセプトが「価値を創造し、伝達し、提供する」といった点にシフトしてきたのだ。マーケティングの父とも呼ばれるフィリップ・コトラー教授の代表的なテキスト『マーケティング・マネジメント〈第16版〉』を見ても、6部21章立ての構成において、3つの部、9つの章で「価値」に関する考察が試みられている[注1]。バリューチェーンで考えると、顧客にとっての価値を生み出す出発点から顧客に価値を引き渡す終着点までの段階が、マーケティングの守備範囲として位置づけられている。

「自社のマーケティング力が弱い」と訴える今日の経営者の多くは、心の中で、販売力や広告コミュニケーション力の弱さをイメージしているのではなく、価値の創造からそれを顧客に伝達するという一連のプロセスの弱さをイメージしているはずである。

 そうなると、今日の環境下でマーケティングを強くするには、どうしたらよいのだろうか。販売力や広告コミュニケーション力を強化するだけでは不十分である。価値を創造したり、説得したり、伝達したりする──つまり、顧客の理解に始まり、ビジネスモデルの構築、新製品開発、新業態開発、ブランドマネジメント、販売チャネル、価格決定、広告キャンペーンなど、一連のビジネス活動の強化が行われなければならない。

マーケティングの定義が変わる

 こうした変化を受けて、私が理事長を務める日本マーケティング協会では、2024年にマーケティングの定義を実に34年ぶりに一新した。マーケティング研究者と実務家から成る10人の委員とともに、約半年間にわたって議論を重ねた。その際には、諸外国の定義を参考にしながら、我が国のビジネス状況も加味した。

 そこから導かれた定義は、「顧客や社会と共に価値を創造し、ステークホルダーとの関係性を醸成し、より豊かで持続可能な社会を実現するための構想およびプロセス」である[注2]。ちなみに、同協会が1990年に制定した旧定義は、「マーケティングとは、企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合的活動である」というものだった。「価値」を中心とする今日的なマーケティングに至る前段階に位置していたことがわかる。

 あれから34年の時を経たいま、社会全体がデジタル化へと推移し、AI、IoT(モノのインターネット)、ビッグデータなどのデジタル技術を用いたデジタル・トランスフォーメーション(DX)が浸透している。そこでは、デジタル技術の実装を通して、顧客に関する膨大なデータが蓄積され、顧客の分析を進めるためのテクノロジーも飛躍的に高度化した。

 こうした今日の社会において、企業は一方的に価値を創造するというよりも、顧客とともに価値を共創する立ち位置へとシフトしている。同時に、シェアリングやクラウドファンディングなどデジタル技術を活かした新しいビジネスが台頭したこともあり、さまざまなステークホルダーとの関係性も問われるようになっている。

 今日のマーケティングを捉えるには、こうした視点が織り込まれていなければならない。加えて、SDGs(持続可能な開発目標)の期限が2030年に迫る中、地球環境への配慮を伴う取り組みが必須となっており、長期的な視点で社会の持続可能性に貢献する組織でなければならなくなっている。