真珠湾攻撃において、連合艦隊司令長官山本五十六は、「航空攻撃」という画期的な戦術を打ち出した。これ以降、戦いの趨勢は、広いアジアの海域、地域での航空作戦の成否によって決定づけられていく。

アメリカをはじめとする連合国軍がこの新たな戦術を徹底していく一方、日本海軍はみずからが実践した作戦の革新性を真の意味では理解していなかった。戦いを左右することになった航空機生産に関する方針が、連合国のそれと比較して、あまりにも稚拙であったのである。

日本の航空機産業は、短期間に技術的基盤を確立したものの航空機製造に関連する産業の技術が追随しておらず、大量生産体制とサプライチェーンの不備によって航空戦力は崩壊していった。本稿では、戦後来日したアメリカ戦略爆撃調査団のリポートなどを基に当時の日本の航空機産業が抱えていた問題を明らかにしながら、戦略的思考のない組織の下にある産業のもろさと、その帰結として崩壊する組織について検証する。