経営学のセオリーやロジックツリー、MICEといった方法論だけでは解決策を導くことはできない。ではどうするか。自身の方法論を導き出したいのであれば、まずは学習の作法を自覚しなければならない。
大阪・道修町の薬問屋の経営能力に学ぶ
――日本における優れた社会システム・デザインの1つに、国民皆保険の健康保険システムがあるということを以前うかがいました。国民皆保険制度の施行は1961年ですね。
日本はまだ発展途上国、就業人口の半分近くは農林水産業の時代です。その時代に国民皆保険制度をつくったのは当時の官僚の先見性のおかげだと思います。

東京大学EMP 特任教授
当時は、ほとんどの病気が肺病も含めて感染症であり、抗生物質の発達のおかげで大半は比較的短期間に治るようになりました。
保険証が交付されて、国民はいつどこの病院にでも行けるようになって、診療を受けやすくなりました。おかげで医師の処方箋による医科向け医薬品の需要も高まって、外国の製薬会社に比べるとだいぶ遅れていた日本の製薬会社も成長しましたね。
大阪の道修町には、タケダ(武田薬品工業)をはじめシオノギ(塩野義製薬)、小野薬品(小野薬品工業)など、江戸時代からの薬種商が集まっていて、ここが日本の製薬の中心地として栄えました。
でもまだ1960年代は、日本の製薬会社は自前で世界に通用する現代的な創薬技術に基づいた新薬の開発製造ができる力はなかったので、ヨーロッパの大手製薬会社、バイエルやサンド、チバガイギー(両社は合併し、現在はノバルティス)などから薬をライセンスを通じて手に入れ、それを日本で販売するというビジネスをしていたんです。タケダの社内には当時、「バイエル課」という1つの課があって、そこに学術部員がいてバイエルの薬を売っていました。そんなところから、日本の製薬会社は巣立っていったのです。
ところで薬といえば、富山の配置薬が思い浮かびますが、富山の薬売りからその後大手製薬会社になったところは見当たりません。
――たしかにそうですね。なぜでしょうか。
その理由は、配置薬がいまでいうOTC薬であったわけですが、現代的医薬では医科向け医薬の市場の方がOTCよりはるかに大きいのです。富山の製薬会社は医科向け医薬の方に転換しなかったのです。多分それは事業を展開していく経営能力の違いであったのでしょう。
道修町の薬種商たちは、素人に家庭薬を売るというよりも医師に薬を売る能力に秀でていました。医薬品の場合、売るといっても単にモノを売るのではなく学術営業ですから薬の説明ができなければなりません。医師に説明し納得してもらうレベルの知識が求められます。タケダやシオノギでは、そういう人材を育てていきました。
それから、医薬品の薬価収載は、国によって独自のプロセスが定められていて、輸出する側にとっては面倒なものです。そこで、日本での薬価収載プロセスをすべて請け負うことで、道修町の薬問屋たちは、バイエルはじめ欧米の製薬会社と提携関係を結び、一手販売権を得たのです。
彼らは、自分たちが何の役に立つのかをよく見極めていました。
そういう時代を経て、60年代後半以降、製薬業にもさまざまな技術革新が起こり、発展していきました。70年代には日本の製薬会社も、まずは抗生物質が中心でしたが、自前の医科向け医薬が曲がりなりにも開発できるようになり、一方、外資の製薬会社も日本での薬価収載と学術営業の経験を積んできました。すなわち、お互いに自立できるようになったのでタケダの「バイエル課」は日本のバイエル社が買い取るかたちで解消しました。
――国民皆保険制度の施行と、日本の製薬会社の発展で、感染症の治療が中心だったかつての日本の医療は大きく進歩していったのですね。
抗生物質で病気が治るということは、発展途上の日本にとっては大きなことでした。病気で何年も苦しむことなく、数か月の治療で治るようになったのですから。
病気は体だけでなく心も病むものです。でも、感染症が中心の時代では抗生物質で体が治れば心もついてきて元気になる。60年代から70年代にかけては、日本人男性の平均寿命は65歳から70歳過ぎくらいでしたから、まだ貧乏だった日本ではとにかく元気に仕事して給料を稼いで、55歳で定年になったら10年くらいのんびり暮らして亡くなっていくという人生が送れたわけです。心のケアなどという考え方はその頃の日本人には必要とされていなかったのです。
――状況は大きく変わりました。いまの日本は、当時の日本とは違う社会が出現しています。
いま、病気の中心は慢性病です。そう簡単に死ぬこともないが、完治することもない、そういう状態が長く続きます。その間、常に病状をモニターし、必要な治療をずっと続けていかなければなりません。生活習慣病や遺伝子病などの難病で長期間苦しむ人たちが急激に増えています。
国民皆保険制度が発足した時には全く想定していなかった新たな状況です。体が治らなければ、心も病んだままです。また、すでに70年代には「心身症」のように心が病むと体に支障が出てくるような病気も出てきました。
国民皆保険の医療システムができたときの人口構成は、若者が多く高齢者の少ないピラミッド構造をしていましたが、現在は急速に逆ピラミッド構造になってきています。このような状況に適した新しい医療システムが必要なことは誰もがわかっているのに、60年代初頭にできた医療システムのままであり、高齢者が多く、慢性病中心という新たな展開が何年も前からわかっていたにもかかわらず、十分に対応できていません。ここに大きな問題があります。