人間だれでも多少の困惑が存在することを好む。例えば、不思議の国のアリスが、“覗き窓”の物語のなかで、さまざまな論理的矛盾に出くわす様を見て、読者はその言語の混乱を楽しんでいる。一般的に、現実の世界で、われわれがこのような困惑に出会うことは稀である。とはいえ、実際にそのような困惑に出くわしたら、われわれはどう感ずるだろう。その際には、この種の困惑は、もはやわれわれにとって楽しみの対象ではなくなるだろう。
近代社会、あるいは近代社会に存在する組織は、ある意味では、覗き窓から未来を覗くことをすでに行なっている。もし、故E. F. シュマッハー博士が信じたように、原因と結果の関係が永遠に持続せず、しばらくの間のみ持続する場合には、物事の論理的秩序が変化せざるを得ない[原注1]。アリスの言葉にしたがえば、真理が永遠に持続する場合もあるだろうが、ある場合には最後の審判が下るまえに、判決が下されてしまうこともあり得るわけである。
自然発生的でない変化は、物事が非連続に進行する際に生じてくる。近代社会における不安は、この非連続性、あるいは今まで真実と信じていたことが真実でなくなり、また今までの論理が逆転してしまうという感覚が増大していることから生じていると信じている。この種のストレスはアメリカ合衆国ですでに明確に生じてきていると考えているが、この傾向は、ヨーロッパ諸国、とくに伝統にもとずく仮説や信念の多くが今や再検討の対象となってきているイギリスにおいては、すでに存在してきていると思われる。