1960年代に起こったつぎのような出来事をご記憶であろうか。ミニー・パールズ・チキン・システムは、12日間ただ1つの販路をオープンにしただけで60万ドル以上の利益をあげた。ナショナル・ゼネラル社がグロセット&ダンロップという出版社を買収するのに支払った価額のうちほぼ70%は暖簾(のれん)代であった。リットンは、予想損失を帳消しにする資金2300万ドルをやりくりするために、2300万ドルの子会社売却益を利用した。

 会計操作はほんのわずかな会社がやっていたにすぎないものかというと、決してそんなことはない。1968年、航空機産業と鉄鋼業で減価償却方法が変更された事実を考えてみてほしい。また、年金基金への会社側の未拠出分を20%、30%、40%、……と帳簿価額以上にまで増大させた会社がいかに多かったことか。また、ウォールストリート・ジャーナルがかぞえあげたところによれば、たった1週間の間に60もの会計上の粉飾が要約年次報告書にあらわれたといわれる、あの1970年を思い出してほしい。

 これらの会計処理とこれに似たことは、過去10年間のよき時代に会社の行動を支配し、多くの財務担当重役の日常の思考を左右していた1株当りの利益(earnings-per-share)を高めようというゲームのすべてであった。もちろん、今日ではみんな昔話になってしまった。これら巧妙な会計上の操作技術は諸規則作成委員会すなわち会計原則審議会(APB)とか財務会計基準審議会(FACB)とか証券取引委員会(SEC)などによって禁止されるようになった。ここしばらくの間、会社の財務は従来とは非常に異なったゲームの様相を呈している。

 ゲームが劇的に変化してきているとすれば、プレーの状況もまた当然違ったものになってきているはずだ。1960年代の後半、ベンチャー資本家の全盛時代に求められたのはすべて“-tronics”とか“-graphics”で終わる概念であった。消費者は資本家の財布に、いわば金を流し込んでいたのであった。しかし1970年代になると、このところ資本市場はいくぶん緩和されているとはいうものの、1960年代に比べて資金コストが著しく高いものになってきている。

 たとえば、1960年代に平均利回り5%で売れたAAA格付社債は、1970年代になると、平均利回り7.5%以上でなければ募集できなくなった。さらに、このごろでは、社債にAよりも低い格付けがつけられた会社では、負債性有価証券は全く売れなくなっている。

 “うさん臭い金”が消えたのと、資本市場の引締めの結果、財務担当重役の役割と仕事の仕方がドラスチックに変えさせられたのも必然であった。経済環境の変化を最もうまく切り抜けてきた多くの企業にあって、これらの挑戦に対する財務担当重役の反応は積極的であり、直接的であった。いわば、財務担当重役は溝に落ちこみながらもなお、オペレーティング・チームの一員として戦いぬいているといえる(場合によっては、チームを率いてすらいるのである)。