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最近の30年間について考えると、経済の分野では多国籍企業ほど急速に注目されるようになった組織はないといってよい。これほど多く論議を呼び、かつまた種々の批判にさらされたものは、ほかにない。しかも、それについて語られる場合、いつもある種の不安感がつきまとっているのである。
1976年の秋、私の友人で、同じくリベラリストであり、かつては同時に政府の仕事をしたこともあるセオドア・ソレンセンが、ワシントンである高い地位の公職に指名された。当然ながら保守派からの反対があったが、同時にまた進歩派からも一種の疑問が出された。彼は自分個人の仕事の弁護士として、いくつかの多国籍企業の顧問になっていたからであった。彼が候補に上げられていたのは、CIA長官の職であった。CIAと多国籍企業との結びつきは、どのようなものでも自動的に疑惑の対象となりえた。たとえこの両者が組み合わされた場合でなくても、多国籍企業という言葉は、なにか非難すべき、あるいは不吉な意味を持っているとみられている。これらの企業の経営者なら会議や会社の集会で、ゲストの大学教授などから、彼らの企業がひき起こしている不安感をどうすべきかといった話を聞かされ続けている。
私のテレビシリーズで、本にもなった「不確実性の時代[原注1]」の中で、私はある程度、多国籍企業に好意的な発言をした。それは、これらの企業がナショナリズムや国境の重要性を少なくし、かつ経済発展に寄与するということを認めたからである。しかし、私の発言の中で、これほどきつく批評されたものはなかったほどの反論を受けた。
企業経営者の誰もが否定しえないように、このような敵意は確かに存在する。それは経営者の大部分が言うように誤解に基づくものである。彼らは自分自身のことを振り返ってみて、そして彼らの同僚、彼らの勤務時間の長さ、顧客や徴税官吏に対するサービスについて考え、また彼らの家族、教会、慈善活動(だいたいにおいて罪のない)、レクリェーションなどのことを思い起こし、自分たちが、はたして言われるような悪人であるかどうかを自問する。その答は当然のことながら、だいたいにおいて「ノー」であるはずである。
しかし、多国籍企業の経営者は、そのような誤解が誰の責任で生じたかを正確に知るべきである。彼が誤解を受けているのは、誤解を受けるように自らの立場を追い込んでいるからである。彼がそうしているのは、普通の場合、意識的に行なった結果であり、またそうさせることに情熱を持って取り組んでいるともいえる。彼は自分や自分の会社のことを、今では何の役にも立たなくなった経済学理論に、神学の衣を着せた説明をしようとしているのである。その結果、誰にもその説明は分かりはしない。ケインズの言葉を借りれば、これほどまでに廃業経済学者に隷従している人間はいない、といってよい。
多国籍企業を事実を基にして弁護しようとすると、困難な場合がある。それは、長い間、真っこうから否定してきたことを認めなければならぬからである。しかしながら、今や事実による弁護は単に望ましいというだけでなく、むしろ不可避な情勢になっていると私は判断している。