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20年前、大部分のアメリカ人が日本の工場について頭に描いていた図式は、欧米の熟練労働者が高度の機械と手法を用いて行なっていたことを、多数の低賃金、未熟練な労働者が群がって、手仕事で模倣し、しかも多大の努力を払うわりにはめったに成功しない、といった類のものであった。一方、今日世界全域における日本製品の成功によってショックを受け、脅威を感じはじめたアメリカ人の間では、日本の抜きんでた力量の原動力を、“日本株式会社”によって手厚く保護され、熟練ロボット――人間の形をしていると否とにかかわらず――で満たされた超近代的な工場のイメージに求めようとする傾向が現われている。
筆者の研究(詳細は著者注参照)によると、この新しいステレオタイプも、おそらく過去のそれと同様、正確ではないと考えられる。近代的な日本の工場とは、多くのアメリカ人が信じているような未来の工場のプロトタイプでは決してない。もしそうならば、われわれアメリカも、持てる技術的能力と資源を使えば、これを複製することができるにちがいない。しかし現実はそうではなくて、われわれがコピーするのがはるかに困難なものである。すなわち、本来動くべき形に動いている今日の工場なのである。
日本が生産の面で現在到達している優れた水準は、その大部分が、ごく単純なことがらを、徐々にではあるが着実に、そしてあらゆる機会をとらえて改良していくことによって達成されているのである。“出る釘は打たれる”と日本の諺にある。筆者の訪ねた工場では、目に見えるあらゆる釘は打ち込まれていた。
筆者は、この“打たれる”過程のいくつかを解説するが、その際、日本の文化的、社会的規範がその経営行動に与える影響、日本型経営システムの異質性、あるいは日本の産業政策の効果などには言及しないつもりである。これらはすべて重要な論点ではあるが、いずれも数多くの書籍および論文のテーマとして採り上げられている(本稿末の参考文献参照)。逆に筆者は、日本人がその生産機能をいかに管理運営しているかという点だけに焦点を絞ってみたい。
筆者が見なかったこと
多くの場合、日本の工場は筆者(およびグループの他のメンバー)が期待していたような、最新鋭の設備を備えた近代的な構造にはなっていない。筆者が見たごく少数の“知能”ロボットは、大部分がまだ実験的なものであった。また筆者の見た限りでは、全般的な技術的水準はアメリカの同等の工場に比べて必ずしも優越したものではなかった(通常は劣っていた)。自動化の中核を成していたのは、アメリカの場合と同様、主として標準加工機械と結合して用いられる単純なマテハン機器であった。また、日本企業がアメリカ企業に比べて、これらの機器を高率で、あるいは長時間稼働させているわけでもない。午後10時以降の女子労働に対する政府規制のために、1日2交替を上回る操業を行なっている工場は日本では極めてわずかである。
同様に、かの有名な“クウォリティ・サークル”も、筆者が予期していたほどの影響力を持っているようには見えなかった。1960年半ばに日本科学技術連盟がこれに公式の支持を与えてから数年あとまで、これはそれほど広範には採り入れられなかった。筆者の訪問した工場の大部分では、導入後、3、4年たってからQCに関して実際に問題を経験している。加えて筆者の訪問した企業のほとんどは、QC採用の前から、すでに羨むべき高品質製品の評価をかち得ていた。ある会社では、クウォリティ・サークルを二義的、周辺的な活動として処理しており、別の会社では全く廃止してしまっていた(“暫定的に”と述べている)。しかしこれらの工場においても、その品質水準は、QCが行なわれている他の工場に比べて決して遜色はない。