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企業の指導者たちはよく、勤勉は成功につながる、と部下に語る。たしかに報酬は努力に比例するというこの考え方は、われわれの社会に深く根づいてきた信念であったし、アメリカは能力あるものがそれをつかむ積極性と忍耐力があれば、“ここ一番のチャンス”は誰にでも開かれている国だという、われわれの認識の根幹をなす信念でもあった。勤勉は人格を作る、ともよくいわれる。ただこの主張にあまり説得力がないのは、実業界もわれわれの社会一般も負けぐせのついた人間に対しては、ほとんど目もくれないことを考えてもわかる。結局、ものをいうのは出世であり、苦労を正当化し、勤勉を価値あるものにするのは成功である。
しかし、大企業に働く人びとが、成功は勤勉と必ずしも関係ない、と考えるようになったらどうなるだろうか。どんな仕組みで、そしてなぜ勝者と敗者の差がつけられるのか、どうしてあるものは成功し、あるものは失敗するのかについて説明できる“客観的な”判定基準がないと考えられるようになったら、企業の社会的倫理観――つまり人びとが日常生活において頼るべき行動基準――はどうなるのだろうか。
このことが、筆者が大企業数社、特に大手化学会社と大手繊維会社の管理者や幹部に対し何度も幅広いインタビューを実施している間、筆者の頭を離れなかった謎である(調査方法は以下の「フィールドワークの方法」を参照)。筆者は、官僚制――われわれの社会・経済で一般化している組織形態――が道義観念の形成にいかなる影響を与えるかを調べるために、前記企業へ乗り込んだ。そして管理者の成功法則が、官僚的倫理観とでも呼べるものの根底を形成していることがわかってきた。
フィールドワークの方法
1980年から1981年にかけて実施したフィールドワークは4社を対象とした。多角化コングロマリットのいくつかの事業会社の1つである大手化学会社、大手繊維会社、中規模化学会社、そして大手防衛請負会社である。最後の2社については、何人かのトップ役員との面会、若干の観察および会社の内部資料の、ある程度の閲覧しか許してもらえなかった。本稿でとりあげたテーマの多くは、この2社での調査中にも出てきたが、筆者はほとんどの場合、この2社の素材は予備データとして処理した。
筆者は36社に調査を拒否されたことも報告しておく必要があるが、これは有益な経験だった。このうち半分の会社の場合、会社のいろいろな幹部との面会を含む長時間の折衝のすえ、断わられた。この時の材料も予備データとして処理した。本稿で筆者が、あることが調査対象企業すべてで観察できると述べている場合、本稿で説明した本来の調査データと同時に、これらの予備データも含めている。
筆者が本格的な調査に注力したのは、最も広範に調査を許された2社、すなわち大手繊維会社と特に大手化学会社においてだった。筆者は両社での調査をそれぞれ1982年半ばと1983年半ばまで続けた。筆者の分析は主として、この2社を根拠にしている。両社で集めた材料は豊富かつ細密にわたっている。そのうえ、両社の規模と複雑さを考えると、両社はアメリカの産業の重要な部門を代弁する資格がある。さらに、この会社で管理者が直面する種類の問題――組織、規制および個人に関するもの――は、どこでも経験されている問題と本質的には同じだと思う。
筆者の研究方法は、すべての管理レベルに該当する管理者や幹部に対する徹底的インタビューだった。インタビューは通常2~3時間であったが、もっと長時間に及んだことも、ときどきあった。先の2社だけで100名以上の人にインタビューした。
そのほかに、いくつかのもっと非公式な方法――例えばインタビュー参加者以外の観察、食事中、また各種管理者セミナーへの参加など――でもデータを奴集した。また会社丙部の資料や発刊物にも自由に接することができた。
本稿は変革を提起することも、改革プログラムを提示することもしない。むしろ単に管理者の仕事の倫理的側面に対し、推論に基づく社会学的分析を試みたものである。本論を鋭い分析とみる読者も、通俗的と見る読者もいよう。いずれの読者に対しても、初めにことわっておきたいことは、筆者の材料はすべて管理者が自分自身の経験を自ら語ったものだ、ということである[参考文献1]。筆者の明らかな強みは、管理者の話を聞く場合でも、業務上の責任関係で身動きがとれないとか、産業界の常識的考え方や特殊用語に毒されている、ということがまったくない点だった。たまたま筆者が他のいろいろな状況のなかで行なった調査から考えても、管理者の経験は他に類を見ないようなものでは決してない。それどころか、それは他の職業群の人びとの経験と深く響き合うところがある。
プロテスタント倫理観に何が起きたか
管理者の経験とそれに含まれるより一般的意味あいを把握するためには、管理者を1つの職業グループとして生み出した、社会的および文化的な大きな歴史の転換という背景に照らして見なければならない。本稿の関心はビジネスにおける勤労の倫理的意義についてであるから、当初のプロテスタント倫理観、つまり資本主義台頭の先がけとなった新興ブルジョア階級の世界観を理解するところから始めることが重要である。
プロテスタント倫理観とは、“世俗的禁欲主義”を標榜する信念体系であり、“この世の天職を休まず、連綿と規律正しく勤める[参考文献2]”ことによって、人間的本能や欲望を整然とかつ合理的に神の意思に服従せしめることである。休みなき勤労と己が労苦の結実に対するたゆまぬ自制というこの倫理観が、現代資本主義の経済的および倫理的基盤となったのである。
一方において、世俗的禁欲主義は経済資本を蓄積するための出来合いの処方箋だったが、他方において、それは新興ブルジョア階級――たたき上げの産業経営者、農業経営者および企業家的職人――にとって、この物質世界に対する彼らの関心や富の蓄積、そしてその富の蓄積の結果生じる社会的不公正までも正当化してくれるイデオロギーとなった。このように、自助自力、勤勉、倹約および合理的計画を至上命題とし、かつ成功と失敗を明確に定義するブルジョア倫理観が、西洋の歴史上の新時代を完全に支配するようになった。