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1980年8月に、私は、ウエスティングハウスの新設の合成燃料事業部(SFD)のゼネラル・マネジャーに任命された。この事業部の主要部門は、石炭ガス化の研究開発にたずさわる部門であり、その一部は米国のエネルギー庁から支援を受けていた。われわれの技術は高く評価されており、合成燃料の未来も明るいものと認識されていた。当時は石油価格は上昇し続けていたし、世界的な原油不足が予測されていた。原油1パレル当たり100ドルの予測すらでていた。こんなときに、カーター政権は、国内の資源を活用した合成燃料の製造を促進し、アメリカの輸入原油に対する依存度を下げるために、合成燃料公社(SFC)を設立した。
SFDでの任務に移る前には、私はタービン発電機のマーケティングと関連サービスを世界的に提供する事業部のゼネラル・マネジャーをつとめていた。私のウエスティングハウス社における16年間のキャリアは、高度な技術を要求する顧客に対し、複雑でハイテク技術にもとづくシステムを販売することに費やされてきた。(私の上司の上司であった)ウエスティングハウスの発電機システムズ社の社長から私に与えられた使命は、非常に明確なものであった。「わが社は非常にすぐれた石炭ガス化技術を保有している。きっと世界でも有数の技術だろう。この技術をすぐれたビジネスに転換できるかどうか検証して欲しい。君の検討の結果、ビジネス化は難しいということになるかもしれないが、それはそれで結構だ。とにかく何が可能かを検討して欲しい。私自身いつでも相談に乗るし、援助を惜しまない。つねに連絡を続けてくれたまえ」。
私がSFDに着任した際、私自身かなり複雑な気持ちを抱いた。工場の所在するウォルツ・ミルはピッツバーグの南東35マイルのところにあり、田畑と家々が点在する丘のスロープに位置していた。大変に美しい場所であったし、現在も美しい。当時その工場には約100名が働いており、そこには石炭ガス化プラント、支援部門の建物、オフィスが存在していた。また、もう1つのオフィスビルと試験施設は工事中であった。この工場を見て、私自身、成功の機会を与えられたことについての大きな挑戦を感じたと同時に、私自身にはまったく新しい領域である状況、とくにその技術とマーケットに対し怖れの気持ちも持っていた(事実、この分野において深い知識を持つ顧客と、この分野の技術を自信をもって討論できると感ずるに至ったのは、着任から4年近くあとのことであった)。
SFDに働く従業員に対する私の第一印象も単純なものではなかった。一部の人たちは私を歓迎してくれているように見えた。しかし一部の人たちからは私に対する批難の気配を感じた。もう少し深いところでは、私の到着に対する嫌悪の気配すら感じとった。また別の見方をすると、私自身が“雇われガンマン”のようにも感じていた。というのは、私自身まったく知識を持っていない分野で、この軍団を勝利に導くために、ほかから雇われたアウトサイダーのように感じたからである。さらに、この工場の技術部門の人たちは非常にすぐれた人材と考えられたが、マーケティング、財務、人事部門の人材はなお力不足であると思った。そこで、着任してすぐに、私は新しい経理部長、マーケティング部長、人事部長を外部から雇用した。これらの新任部長たちは商業化に向けての組織としての能力を高めるべく、専門スタッフの強化にとりかかった。
スタッフ以外の問題で私がもっとも関心を持った問題は、われわれの持つ非常に成功の確率が高く、なお揺籃期にあるすぐれた技術を、他の資源と競合でき、利潤を生みだすビジネスに育てていく戦略プランを策定する必要を感じた点であった。そこで、私の着任後1年間は、まず私自身がこのビジネスを十分学習し、さらにスタッフと協力して移行期のプランを作りあげることに専念した(SFDで起こった主要なイベントは下記のカコミ「合成燃料事業部で起こった主な出来事」にまとめて紹介している)。この研究の結果、液体ベッド活用のガス化装置の技術的、経済的フィージビリティー(効果性)を証明する完全規模の試作プロジェクトが必要不可欠の第2段階であるという結論に達した。1981年後半には、ウエスティングハウス社のすぐれた技術を補完し、試作プロジェクトを成功に導くために貢献してくれる技術的、財務的実力を備えたパートナーを見つけだした。
顧客は何を望んでいるのか、ウエスティングハウス側は、何が達成できるか、すぐれた収益をあげる可能性はいったいどの程度あるのかといった諸点を真剣に検討した結果、マーケットへ参入する方法としてシステム供給の考え方をとることにした。これは、ウエスティングハウスが原子力スチーム供給システムを販売すると同様な方法で、石炭ガス化システムを販売していこうとする方法であった。すなわち、顧客の持つ石炭資源とその活用を促進するシステムを設計してあげる、ウエスティングハウス社が顧客所有の施設を建設してあげる、われわれがハードウェアの一部を外部から購入してあげる、あるいは、われわれが、建設、立ち上がり、訓練までを担当し、顧客側が工事現場の労働力、原料資源などの調達に対し責任を持つといった形のサービスの考え方であった。
したがって1980年において私自身が認識していた私の任務は、ビジネス上のいくつかの課題に取り組んでいくことであった。すなわち、まずわれわれのビジネスを技術的にも商業的にも定着させていく戦略プランを策定し、未開拓で、なじみの薄い環境で利潤をあげ得るようになる、といった課題であった。その当時は、以上の問題よりさらに挑戦を必要とする人間系における問題(ピープル・プロブレム)が私に振りかかってくるかもしれないとは予想もしなかった。もしそんな問題があったとしたら、だれかが私に前もって、教えてくれていたはずだと考えていた。