資本と「労働」の闘争から資本と「才能」の闘争へ

 ジョン・スタインベックは『怒りの葡萄』で、小作農と、彼の家を壊そうとするトラクター運転手との対立を描いた。

 その農夫は銀行からの借金を返済できない。農夫は運転手に、家に近づいたら撃つと脅す。運転手はもし農夫が自分を殺したとしても、また別の男が家を取り壊しにやってくると言う。「殺す相手を間違えている」と。

「だれがお前に命令を出したんだ」と農夫は運転手に尋ねる。「それも的外れだ」と運転手は言う。「自分に命令を出した人間は、その指令を銀行から受けた」。しかし、銀行の頭取や取締役を襲撃しても意味がない。なぜなら、彼らは東部から指令を受けているだけだからだと言う。

「いったいどこに終わりがあるんだ」と農夫は疑念を抱く。「飢え死にさせられる前に、俺をそういう目に遭わせる奴を殺す」。運転手は「それは人間ではないのかもしれない。おそらく所有というものではないだろうか」と答える。

 所有なるものが、再び同じような事態を引き起こすかもしれない。20世紀の大半において、労働と資本は工業経済の支配権をめぐって激しく闘ってきた。それは多くの国で、政府と社会の支配権をめぐる争いともなった。

 いま、かつての壮大な階級闘争の傷が完全に癒えぬままに、新しい闘争が始まっている。今度は、資本と才能が知識経済からの利益をめぐって争い始めたのである。

 前世紀において、企業は労働組合に勝利を高らかに謳い上げたが、現在、株主は知識労働者が主導する革命を容易には阻止できないだろう。

 CEOの報酬への世界的な批判の高まりは、資本と才能の間の闘争がいかに熾烈なものになるかを示唆している。1991年から2000年の間に、アメリカ企業のCEOの報酬が平均で434%上昇した時、多くの株主が不満の声を上げたが、その姿勢にはまだ寛容さもあった。企業の利益が上昇し、株式市場が活況を呈することで、投資家も潤っていたからである。