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プロイセンだけでは語れない
日本人のドイツ史に関する知識はこのようなものだろう。
1871年、ドイツ帝国成立。主体となったプロイセン王国の首相ビスマルクが帝国宰相に就任し、ドイツ統一を強力に進めた。その後、第1次大戦でドイツ・オーストリア枢軸は連合国に敗れ、1918年のドイツ革命を経て皇帝は廃位し、ドイツ帝国は崩壊、ワイマール共和国が誕生する。しかし20年代の超インフレ、不況をくぐり抜け、33年に議会を制したのはヒトラーのナチスだった。第2次大戦後は米ソ冷戦下、東西ドイツに分断され、89年の東欧革命を経て、90年に統一され、現在のドイツ連邦共和国に至る──。
日本人にとって、ドイツ帝国の主体となったプロイセン王国のイメージは強く、大きい。明治初期から昭和戦前まで、主要な留学先の一つがプロイセンであり、法制度、自然科学、社会科学、医学など、あらゆる学問や技術を摂取しに多くの留学生が首都ベルリンを訪れたからだろう。プロイセンは軍備を増強し、産業を振興し、大学教育に力を入れた。ドイツ帝国は、日本の近代化とイノベーションのモデルだったのである。
では、19世紀ドイツの驚異的なイノベーションの源流はどこにあるのだろうか。そして、現在のドイツにその歴史的な環境は残っているのだろうか。まずはプロイセンの起源からドイツの長い歴史をたどってみよう。
プロイセンとは、もともとバルト海沿岸(現ポーランドと一部ロシア領)に住んでいた非キリスト教徒の部族の名称だった。1190年にドイツ騎士修道会(騎士団)がポーランド貴族に招かれ、このプロイセン族を支配し、キリスト教化し、地方国家をつくった。その後、この国に入植した人々がみずからをプロイセンと名乗った。
一方、南ドイツ出身の貴族ホーエンツォレルン家が15世紀にブランデンブルク辺境領(現在の同州)に現れ、その一族の一人がプロイセン公となった。17世紀、いくつかの偶然が重なり、ブランデンブルクのホーエンツォレルン家がプロイセンを相続した。そして1701年、ポーランドを挟んだブランデンブルクとプロイセンは一体となってプロイセン王国となったのである。
18世紀にはホーエンツォレルン家のフリードリヒ大王の時代を経てドイツのなかでも大国となり、南のオーストリアを支配するハプスブルク家と共に2大国が抜きん出た存在となる。