自分は何者かを問う理論

 今回はアイデンティティに関する理論を取り上げる。アイデンティティ──「自分は何者か」という問い──は、極めて奥深い。突き詰めれば、それは哲学の存在論に関わる問いであり、古代ギリシャ哲学にまで遡る。プラトンの「イデア」やアリストテレスの「形相」は、アイデンティティ論の萌芽と位置づけられるかもしれない。とはいえ、本連載は経営理論に関するものなので、本稿では経営学のアイデンティティ理論に絞って解説する。

 なぜ、アイデンティティの理論を取り上げるのか。それは、いま多くの日本企業とビジネスパーソンに、アイデンティティの再構築が強く求められていると筆者が認識するからだ。図表1「AI時代に人間が回すべきサイクル」をご覧いただきたい。これは本連載第1回で示した、変化が激しくAI全盛となるこれからの時代において、3つの経営理論を軸に、人の役割を考えたものだ。

 まず、変化の激しい時代では、どの企業もイノベーションを創出していかなければならない。そのためにいままで「知の深化」に偏っていた企業が、「知の探索」を促す必要がある(知の探索・知の深化の理論)。しかし、知の探索は大変な作業だ。「遠くの幅広いものを多く見て、新しい知と知の組み合わせを試す」という行為なので、時間もコストもかかり、失敗も多い。目先の業績を優先する企業にとっては無駄に見えてしまう。結果、多くの企業は途中で心がくじけ、また知の深化に偏ってしまうのだ。

 ここで重要になるのが、センスメイキング理論だ。これは端的に言えば、「腹落ち・納得性の理論」である。無駄に見えても知の探索を続けるには、「この企業は未来に向かって何を目指しているか」「この企業は何のために存在するか」に、経営者から社員一人ひとりに至るまで、腹落ちしている必要がある。自分たちの目指す方向性に腹落ちがあれば、困難でもその未来を信じて、知の探索を続けられるからだ。

 もうおわかりだろう。企業経営のセンスメイキングに重要なのは、「我々は何者か」「この会社は何を目指しているか」という、企業アイデンティティの腹落ちなのだ。のちに解説するように、アイデンティティとセンスメイキングは密接に絡み合っている。

 いま日本ではパーパス経営が注目されている。ミッション、ビジョン、バリューの浸透が進んでいた欧米企業と異なり、多くの日本企業は、「自分たちは何者か」というアイデンティティを全社に浸透させることを怠ってきた。大きな変化を起こさずとも事業が成り立っていたことや、終身雇用で社員が簡単には離職しないことが、背景にあったと考えられる。しかし今後は不確実性が高く、どの企業もイノベーションが求められ、雇用の流動性も高まる。だからこそ「この会社は何の会社なのか」「我々はどのような未来をつくりたいのか」を全社に浸透させる必要が出てきたのだ。

 一方で、パーパスやミッション、ビジョン、バリューは、いずれも企業アイデンティティの表出化にすぎない(図表2「アイデンティティに関わる概念」でこれらの概念を整理している)。本稿ではパーパスやミッション、ビジョン、バリューの根底にあるアイデンティティの理論メカニズムを解説していく。

 そして、アイデンティティの腹落ちが必要なのは、企業だけではない。企業アイデンティティの浸透には、その企業に属する社員一人ひとりが自分のアイデンティティに腹落ちしている必要がある。本人がやっていきたいこと、すなわち「個人のアイデンティティ」が自分の属する企業のアイデンティティと共鳴している時、社員は企業のために力を発揮するからだ。