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自動車産業との出会い
私とゼネラルモーターズ(以下GM)の出会いを語るためには、壮大なテーマをしばし離れ、プライベートな事柄にも触れなければならない。私は1875年5月23日――今日から見れば、古きアメリカがその面影を少なからず留めていた時代――に、コネチカット州ニューヘブンで生まれた。
父はベネット・スローン・アンド・カンパニーという商店を営み、紅茶、コーヒー、煙草などを扱っていたが、1885年にニューヨークのウェストブロードウェイに店を移している。このため私は、10歳の頃よりブルックリンで育つことになった。いまでもブルックリン訛りがあると言われる。
父方の祖父は教師、母方の祖父はメソジスト派の牧師だった。兄弟は私を頭に5人。妹キャサリンはプラット家に嫁いだが、すでに未亡人となっている。弟クリフォードは広告ビジネスの世界に身を置き、ハロルドは大学で教鞭を執っている。四男のレイモンドは病院管理を専門とし、大学で教えるかたわら、著述なども行っている。私たち兄弟はみな、それぞれの関心分野に情熱を傾け尽くすタイプのようだ。
私が社会に出た頃、奇しくも自動車産業が生まれている。1895年、デュリエ兄弟がそれまでの自動車研究を土台にして、(私の記憶では)最初のガソリン自動車メーカーを設立したのである。
この年私はMIT(マサチューセッツ工科大学)から電気工学の学位を得て、ハイアット・ローラー・ベアリング・カンパニー(ニュージャージー州ニューアーク:後に同ハリソンに移転)に勤務するようになった。
ハイアットが生産していた減摩ベアリングは、後に自動車部品として用いられるようになり、それが私を自動車産業へと導くことになる。以後、ごく一時期――しかも非常に初期――を除いて、私は今日まで常に自動車産業と共に歩んできた。
ハイアットは小規模な企業だった。社員数は25名前後。10馬力のモーター1基で、すべての生産設備を動かすことができた。ハイアットの減摩ベアリングは、ジョン・ウェズレー・ハイアットが独自のアイデアを基に考案したものだった。
氏はセルロイドの発明者でもある。セルロイドはプラスチックの先駆けで、象牙の代わりにビリヤード・ボールに用いる案があったが、ついに実現しなかった。
当時、減摩ベアリングは一般に完成度が低く、あまり知られていなかったが、ハイアット製のベアリングは他の機械部品と比べて決して遜色がなく、走行起重機、製紙機械、鉱山用車両などに採用された。
それでも、全社の月間売上高は2000ドルにも満たなかった。私自身は月給50ドルで、雑用、製図、セールス、総務アシスタントなどさまざまな仕事をこなしていた。
ハイアットには将来性を見出すことができなかったため、ほどなく退社して、家庭用冷蔵庫メーカーに職を得た。こちらのビジネスのほうがはるかに有望と思われた。製品はアパート向けの電気冷蔵庫(棟全体で1台を共有することを想定していた)で、当時としてはまだきわめて珍しかった。
だが2年後、私は考えを改めるようになった。この製品はあまりに複雑で価格も高い。普及させるのは難しいだろう。
その間、ハイアットは依然として厳しい状況にあった。設立以来一度として利益を上げたことがなく、ジョン E. サールズという人物の資金援助によって何とか持ちこたえていたのだが、サールズが援助を打ち切ると言い出した。このため、1898年には清算せざるをえないところまで追い詰められていた。
そこで私の父とその仲間が合計5000ドルを投じることになった。私が6カ月ほどハイアットでできる限りの努力をする、という条件がついた。私もこれを受け入れ、ピーター・スティーンストルップという若手と共に再建を試みることにした。スティーンストルップは当初、経理を預かり、後にセールス・マネジャーとなっている。
父たちと約束をしてから6カ月後、販売量、売上高共に上向き、1万2000ドルの利益を上げることができた。「もしかしたら繁栄に導けるかもしれない」と希望が湧いてきた。そして私はゼネラル・マネジャーの肩書きを得た。
だがあの時はまだ、ハイアットの事業を介してやがてGMと縁を持つようになるとは、思いも寄らなかった。
ハイアット・ベアリングでの苦難
続く4、5年の間、ハイアットは成長の苦しみを味わった。取引先が容易に見つからない。ようやく受注を得ると、新たに運転資本が必要になるが、どこも手を差し伸べてくれない。
それでも税制が緩やかであったため、今日と比べてスタートアップ企業は恵まれていたといえる。5年目を迎えると、光が見えてきた。年間で6万ドルの利益を計上することができた。さらに、自動車産業が新しい市場を切り開いてくれたため、将来への希望がもたらされた。
20世紀を迎える頃には、自動車市場に小規模な企業が続々と参入するようになっていた。減摩ベアリングも注目を引き、「自動車部品として試しに使ってみたい」という注文が舞い込むようになった。私は1899年5月19日付で、ヘンリー・フォードに発注を求める手紙を書いている。
フォードの伝記を著したアラン・ネビンズによれば、その原本がフォード資料館に保存されているそうである。
フォードは当時、自動車製造を試み、本格的に事業展開しようとしていた。このような状況にもかかわらず、1910年頃まではハイアットのベアリングが売上げを大きく伸ばすことはなかった。
数百もの自動車メーカーが生まれたが、大多数が試作品をつくっただけで消えていった。
事業パートナーのスティーンストルップは、新興自動車メーカーから何とか受注を得ようと、東奔西走していた。スティーンストルップが新しい自動車メーカーについて情報を得ると、私がコンタクトして、エンジニアリングの知識を背景に折衝を進めた。車軸その他のパーツに自社製ベアリングを組み込んだ設計案を示し、何とか受注につなげようと努力を続けた。
ハイアットの事業内容が知られるにつれて、私自身もセールス・エンジニアとして活動の場を広げ、自社製品に合いそうな数多くの自動車メーカーやサプライヤーに、ベアリング関連のコンサルティングを行った。
やがて、メーカーが設計を変更したり、新型車種を検討したりする際には、意見を求められるようになり、それをきっかけに自社製品を後車軸、トランスミッションなどに採用してもらうことができた。
セールス・コンサルティングの機会は順調に増えていった。とりわけ1905年から15年にかけては、絶え間なく問い合わせが寄せられた。この時期、フォード・モーター、キャデラック、ビュイック、オールズ、ハドソン、リオ、ウィリスといった自動車メーカーが、生産台数を増やし始めていたのである。
ハイアットも自然に、前記のような成長軌道に乗った顧客を意識しながら事業を展開していった。順風満帆だった。課題は、産業の拡大ペースに取り残されないように、いかに生産量を伸ばしていくかということだった。新しい工場、機械、生産手法などが求められていた。
プライベート用途では、私から見ても自動車は高嶺の花だった。1900年の総生産台数はわずか4000台前後で、何よりも非常に高価だった。父はごく初期の〈ウィントン〉を買い、家族を乗せていた。あれは1903年だったと思う。
私はハイアットの名義で〈コンラッド〉という車種を購入し、社用に使うようになった。ハリソンの工場からニューアークまで、ランチや用事で出かける折りなどに活躍してくれた。
2サイクル4気筒エンジンと赤のボディ――スタイリッシュな車だった。しかし残念なことに、性能は思わしくなかった。〈コンラッド〉は1900年から1903年まで生産されたのみで、短命に終わった。
次に選んだのは〈オートカー〉である。こちらは性能がよく、出張に使うこともあった。アトランティックシティへも何度か走らせた。だがこの車種も〈ウィントン〉〈コンラッド〉と同様、ほどなく生産中止となった。
同じ〈オートカー〉ブランドでもトラックは普及を続け、1953年にホワイト・モーター・カンパニーに吸収されている。プライベートで初めて持ったのは、〈キャデラック〉である。車台のみを購入して、ボディは注文した。当時(1910年頃)は、それが一般的だった。
〈キャデラック〉のエンジニアリング手法は、創成期の自動車産業、ひいてはハイアットの事業にも少なからぬ影響を及ぼした。これはヘンリー・リーランドの存在によるところが大きいだろう。
私の理解では、リーランドこそ、自動車部品に互換性を持たせるうえで中心的な役割を果たした人物である。1900年前後にオールズに入社して自動車業界に身を置くようになり、次いでキャデラックを率いるようになっていた。
1909年にキャデラックがGMの傘下に入った後も、トップの座に留まり、1917年に退任している。その後は〈リンカーン〉を製造し、フォード・モーターに売却している。
私の会った自動車業界の人々
私は自動車産業と関わるようになってからほどなく、リーランドの知己を得た。氏は一回りも年長であったうえ、エンジニアリングへの造詣が深かったため、尊敬の的であった。器の大きい人物で、高い創造性と知性を兼ね備えていた。そして、品質を何よりも重んじていた。
氏との出会い――20世紀に入って間もない頃――は、けっして穏やかなものではなかった。
私がハイアットのローラー・ベアリングを勧奨したところ、叱責を受けたのである。製品の精度を高め、厳格な仕様を満たしてもらわなければ困る。当社では、部品に互換性を持たせてあるのだから――。
リーランドはこの業界に転じた時にはすでに、エンジニアリング全般とガソリン・エンジンについて豊かな経験を持っていた(ガソリン・エンジン分野の経験は、船舶業界で長く培ったものである)。
わけても、精密金属加工についてはきわめて高い専門性を有していた。南北戦争時代(1861―65年)に連邦側の兵器庫に工具を納め、その後も、ブラウン・アンド・シャープ・カンパニー(ロードアイランド州プロビデンス)という機械メーカーでその専門性に磨きをかけていった。
記憶をたどれば、はるか以前、機械技術者のイーライ・ホイットニーが互換性のある銃部品を開発していたという。ホイットニー、リーランド、そして自動車産業は、一本の糸で結ばれているのである。
自動車産業を生み出したのは一握りの人々である。ハイアットが自動車に欠かせない部品を製造していた関係から、私は社会に出てから20年間で、
“自動車産業の生みの親”たちのほとんどと交流を持つようになり、事業パートナーとして、あるいは友人として実に多くのことを教えられた。
ハイアットは、ごく稀には自動車メーカー(キャデラック、フォード・モーターなど)にじかに製品を納入することもあったが、通常は部品サプライヤー、自動車組立会社を通していた。
部品サプライヤーのなかでも取引先としてとりわけ重要だったのが、車軸製造のウェストン・モット・カンパニー(本社ニューヨーク州ユーティカ)である。ウェストンの後車軸には6個のベアリングが用いられており、そのいくつかにはハイアット製が採用されていた。
同社は1906年にチャールズ・スチュワート・モットの意思で、自動車産業のメッカに近いミシガン州フリントに移転した。それを機に、私は月に一度、モットを訪問するようになった。
思えばあの当時、フリントのメインストリートであるサギノー通りは、両側に馬のつなぎ柱が並び、土曜日の夜ともなると、馬、荷馬車、自家用馬車であふれかえっていた。農場主たちが繰り出して、1週間分の買い物をしたり、ナイトライフを楽しんだりしていたのだ。
自動車メーカーや部品サプライヤーのトップが内輪の集いを持っていたのも、あの界隈である。集いは社交やビジネスを目的としながら、何年にもわたって重ねられた。
メンバーはチャールズ・スチュワート・モット、チャールズ・ナッシュ、ウォルター・クライスラー、ハリー・バセット、そして私。思えば私を除く全員が、すでにGMと深く関わっていた。ウィリアム・デュラントとも顔を合わせていたに違いない。
しかし、思い出すのは、ニューヨーク―デトロイト間を行き来する列車に偶然乗り合わせ、挨拶を交わしたことだけである。
あの頃はまだ、私はモットを通して間接的にGMと取引をしていたにすぎない。モットは1909年に自社をGMに売却し、その後も〈ビュイック〉〈オークランド〉〈オールズ〉向けに車軸を製造していた。
より正確には、1909年に全株式の49%を、その3年後に残りすべてをGMに売却している。
いずれにせよ、ウェストン・モット・カンパニーを通して、私はハイアットのローラー・ベアリングをGM車に採用してもらうことに成功したのだった。
ウォルター・クライスラーと巡り合ったのも、フリントの地であった。クライスラーは〈ビュイック〉の工場長として、また後には最高責任者として、ウェストン・モットから提出される車軸の設計とハイアットの部品を精査していた。
時と共に、私たち2人はGMの内外で頻繁に会うようになり、生涯の友となった。後年、それぞれクライスラーとGMのトップとなってからも、誘い合ってバカンスに出かけることがあった。その間はビジネスの話題はタブーである。
ウォルター・クライスラーは高い志、豊かなイマジネーション、優れた実務能力を兼ね備えたオールラウンドな経営者だった。わけても彼の真価は、自動車産業の創成に力を尽くした点にあるだろう。チャールズ・ナッシュと同様、生まれたばかりの自動車産業に大いなる可能性を見て取っていた。
クライスラー、ナッシュ共に、創成期の自動車産業を代表する人物として、偉大な企業を指揮した。
デトロイトでは、私はハイアットの製品を勧奨する目的でフォード・モーターを訪れ、ヘンリー・フォードとランチを共にする機会にも恵まれた。とはいえ、商談に応じるのはほとんどの場合、フォード本人ではなく、チーフ・エンジニアのC. ハロルド・ウィルスであった(ウィルスは後に〈ウィルス・セント・クレア〉という車種を製造している。優れた車だが、市場で長く生き続けることはなかった)。
ウィルスのエンジニアリング、なかんずく冶金に関する知見はヘンリー・フォードに大きな力を与えていた。
ハイアットが信頼性の高い製品をスケジュールどおりに納品していたため、フォード・モーターはやがて、ベアリングを――ハイアットが適合品を供給できない場合を除いて――すべて発注してくれるようになった。フォード・モーターは事業を拡大し、GMを抑えて最大の得意先となった。
売上高が伸びたため、私はデトロイトにもハイアットのセールス・オフィスを設けることにした。開設地に選んだのはウェストグランド通りである。後に偶然が重なって、そこにGMビルが建てられることとなる。
GMへの合併
1916年春のある日、ウィリアム・デュラントから電話がかかってきた。話したいことがあるので来てほしいという。デュラントといえば、GM、シボレー両社の設立者として、自動車業界のみならず金融業界においても広く知られる存在だった。
すでに述べたように、デュラントは一時GMの中枢から離れていたが、電話をかけてきた頃には、すでに復帰への地ならしができていた。
人当たりがよく、穏やかな口調ながらも、その話は聞く者を引き込む力を持っていた。上背はあまりなく、地味で清潔な服装をしていた。巨額資金が絡む複雑な金融取引を日々繰り返していたにもかかわらず、いかなる時も平静さを失わないように見受けられた。たしかな人柄と才気が伝わってきた。
そのデュラントが用件を切り出した。「ハイアット・ローラー・ベアリング・カンパニーを、売りに出す気持ちはないだろうか」
その言葉にショックを受けなかったといえば嘘になる。何年もの歳月を、ハイアットの事業を拡大することに費やしていたのだから。
だがその一方で、新たな展望が開けたのも事実である。私はハイアットの置かれた状況に深く思いを巡らせた。必然的に、3つの事柄が想起された。
第1に、事業の性質ゆえに顧客がきわめて限られていた。フォード・モーター1社で売上高全体のおよそ50%を占めていた。仮にフォードから取引を打ち切られるようなことがあれば、その埋め合わせをすることは不可能であった。フォードに匹敵する規模の自動車メーカーなど他に存在しないのだから、事業を根底から見直さざるをえなくなる。
第2に、自動車が進化すれば、ハイアットのローラー・ベアリングは他のタイプの製品に取って代わられ、いずれその使命を終えるはずであった。
私は考えた。その時が訪れたら、ハイアットはどのような行動を取るべきだろうか。再び建て直しを図れるのだろうか。あるいは、別の製品を開発するという方法もあるかもしれない。
だがそれは、新しい事業をゼロから立ち上げることを意味した。製品の改良については絶えず関心を寄せていたが、ローラー・ベアリングは特殊性が高い。
選択肢は2つに一つだった――単独で突き進むか、あるいは自動車メーカーの傘下に入るか。……この時からおよそ45年。私の予想は誤っていなかった。当時のハイアット製品、類似の減摩ベアリング共、もはや用いられなくなっている。
第3に、私は社会に出てから40歳のその時まで、ハイアットの発展に努力し、大きな工場と権限を手にしていた。だが、高い配当を得たことは一度としてなかった。そこに舞い込んだのがデュラントの申し出だった。ハイアットを売却すれば、すぐに資産を得られるはずであった。
ユナイテッド・モーターズの社長となる
決め手となったのは第2の点、すなわちローラー・ベアリングの将来性だった。
短期的な利益見通しは悪くないが、先行きを見通した場合、買収提案に応じるのが賢明だろうと思われた。すでにある資産から、より大きな価値を引き出せることも間違いなかった。
私はデュラントの提案を受け入れようと心に決め、ハイアットのディレクター4人を前に、「1500万ドルで売却に応じることにしたい」と述べた。「高すぎるのではないか」との意見もあったが、私はそうは思わなかった。ハイアットには強みがあった。自動車産業にも将来性があった。
こうして、デュラントの代理人との間で話し合いを始めることになった。相手方は2名、弁護士のジョン・トーマス・スミスと銀行家のルイス G. カウフマンである。何回となく交渉を重ねた末、売却価格は1350万ドルで落ち着いた。
支払方法を決める段になって、半額を現金で、残りを新会社――デュラントは「ユナイテッド・モーターズ・コーポレーション」という新会社を設立しようと考えていた――の株式で受け取ることになった。
ところが手続きの完了が近づくにつれて、ハイアットの社内に株式での受け取りを快く思わない向きがあることがわかってきた。このため、私自身は現金を諦め、その代わりとして株式を多く保有することになった。父と共にハイアットの株式を多数保有していたため、結果として、ユナイテッド・モーターズでも主要株主に名前を連ねることとなった。
こうして1916年、ハイアットとパーツ・部品企業4社の受け皿としてユナイテッド・モーターズが誕生した。ハイアット以外の4社は次のとおりである。
・ニュー・デパーチャー・マニュファクチャリング・カンパニー(コネチカット州ブリストル:ボール・ベアリングを製造)
・レミー・エレクトリック・カンパニー(インディアナ州アンダーソン:電子式始動・点火装置を製造)
・デイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニー(略称デルコ、オハイオ州デイトン:レミーと異なった方式の電子装置を製造)
・パールマン・リム・コーポレーション(ミシガン州ジャクソン)
私は初めて、単一の自動車部品にとどまらず、幅広い製品を手がけるようになった。ユナイテッド・モーターズの社長兼COO(最高執行責任者)に任命されたのである。取締役会は、デュラントが買収した企業の経営者たちによって構成されていた。
デュラント自身は取締役に就任することも、経営に関与することもなく、すべてを私に任せていた。私は、自分で発案し、取締役会の承認を得ることによって、さまざまな施策を実行していった。
ハリソン・ラジエーター・コーポレーション、クラクソン・カンパニー(著名なクラクション・メーカー)を共に買収した。
さらに、ユナイテッド・モーターズ・サービスを設立して、全米でグループ企業の製品を販売・サービスすることにした。初年度、グループ全体の純売上高は3363万8956ドルに達した。最も大きく貢献したのはハイアットである。
ユナイテッド・モーターズ・グループはかねてより、GMのみならず複数の自動車メーカーに製品を供給していた。しかしGMのトップ・マネジメントは、将来を見据えて、ユナイテッドの製品をすべて確保できるようにしておきたいと考えた。
このため1918年には、GMとの合意によって――というよりもGM財務委員会議長だったジョン J. ラスコブと私の交渉によって――、ユナイテッド・モーターズはGMに吸収されたのである。
GMの取締役へ
ここまで、ハイアットに多くの紙幅を割いてきたが、それはあくまで、私とGMの出会いを語るうえで欠かせないからである。
私はGMのバイス・プレジデントとなったが、これまでどおり部品、アクセサリー製造を担当していた。GMの取締役、さらには経営委員会(当時の議長はデュラント)のメンバーともなった。
1918年から20年にかけては、担当業務は変わらなかったが、経営委員会に出席するようになったことで新たな視界が開けた。
加えて、職務としてのみならず、私財のほとんどが自社株で占められているという個人的な事情からも、GMの業績に大きな関心を寄せるようになった。ほどなく、デュラントの経営方針にも注意を払うようになった。
デュラントについては、何と記せばよいのだろうか。もちろん、心から尊敬している。ほとばしるような才能、イマジネーション、懐の深さ、誠実さ。GMへの揺るぎない忠誠。ラスコブやピエール S. デュポンは正しい――GMに魂を吹き込み、ダイナミックな成長を可能にしたのは、まぎれもなくデュラントその人である。
しかしその一方、経営実務では随所に気まぐれさを発揮し、何もかもを自分で背負い込んでしまうのであった。こちらがようやくデュラントのスケジュールを押さえて重要な事項について伺いを立てても、往々にして、その場の思いつきで判断を下された。私自身の経験から2つのエピソードを紹介したい。
ニューヨーク57番街の旧GMビルで、私は時折り、自室の隣にあるデュラントの部屋を訪ねていた。1919年のある日、やはりデュラントのもとに行き、こう進言してみた。GMの株式には多くの投資家が注目している。公認会計士事務所に監査を委ねるべきではないだろうか。
それというのも、以前は投資銀行が目を光らせていたが、この頃は外部による監査は行われていなかった。デュラントは企業会計にはあまり明るくなく、経営上大きな意義を認めていなかったのだが、私の言葉を即座に了承し、会計士事務所を探すようにと命じたのである。
これがデュラントのやり方だった。れっきとした財務部があるにもかかわらず、提案者の私に任務を与えるのである。以来、ユナイテッド・モーターズ時代からつきあいのあったハスキンス・アンド・セルズが、GMの監査に当たっている。
こんなこともあった。デュラントほか数人が、デトロイトに建設が予定されているビルについて話し合っていた(当初は「デュラント・ビル」となる予定だったが、現在では「GMビル」として知られている)。
デトロイトの地図を見ている折り、デュラントはいつものように私を呼び入れた。
ちょうど、候補地としてダウンタウンにあるグランド・サーカス公園の周辺が話題になっていた。そこから数ほど北に行ったウェストグランド通りには、ユナイテッド・モーターズのセールス・オフィスがあった。
おのずから私は、親しみのあるセールス・オフィスの周辺を候補地として思い浮かべた。十分な理由もあった。デトロイト北部の住宅地から通勤の便がよく、ダウンタウンと比べて渋滞が少ない。
この考えを口にしたところ、デュラントはこちらの顔を見て、次にデトロイトを訪れる際に皆で視察しようと言った。
その言葉のとおり、私たちは共にデトロイトに赴くことになった。……まるで昨日のことのようだ。デュラントは、キャス通りとの角から、ウェストグランド通りを西へゆっくりと歩を進め、ユナイテッド・モーターズ・ビル――かつてのハイアット・ビル――を通り過ぎた。そしてどうしたわけか、あるアパートの前で立ち止まった。
「このくらいの広さが望ましいのだが」。そうつぶやくと、私のほうを振り返った。「アルフレッド、この土地を買ってもらえないか。 価格については任せる。君の決めた額をプレンティス(経理・財務の責任者)に出させよう」
私は不動産には素人だった。デトロイトに住んでいたわけでもない。それでも腰を上げ、取引をまとめていったのだから、我ながら上出来ではないかと思う。
買収交渉はユナイテッド・モーターズ・サービス・コーポレーションの社長ラルフ S. レーンに任せた。
ある広さの土地を選んで、その中の区画を買い取っていくというのは、実に張り合いのある仕事である。こちらが関心をどれだけ表に出すかによって、値が動いていくのである。
必要とされた広さを押さえると、デュラントは「ブロックの半分ではなく全体を手に入れてはどうか」と言う。やがてブロック全体を確保することができた。
最初から具体的な構想があったのかどうかはさておき、ほどなく100%が活用されるようになった。GMビルが完成すると、一帯はデトロイトの新たな商業地区として開けていったのである。
デュラントは形式にとらわれずに事業を進め、スタートアップ期のGMにしばしばメリットをもたらした。また、さまざまな機会をとおして私に自信を与えてくれた。そのようなデュラントに対して、感謝や尊敬の念を抱かないはずがない。
だが、こと経営管理に関する限り、やはり厳しい視線を向けないわけにはいかない。特に大きな懸念を抱いたのは、1918年から20年にかけて、氏が明確なマネジメント方針も持たないままに事業の多角化と拡大に突き進んだ時である。
事業の拡大そのものと、そのために組織を大きくすべきだという考え方は、区別しておかなくてはならない。当時の事業拡大が深い考えに基づいていたかどうかは、疑問の余地があるだろう。その責任はデュラントとラスコブにある。
しかし、長い歳月を経た今日振り返ってみると、あの時に拡大を進めたのは――少なくとも自動車開発に関する限りは――有意義で望ましいことだったといえる。
自動車は単価が高く、しかもマス・マーケット向けに販売しようとしていたため、多大な資本投下が必要とされた。この点をデュラントとラスコブは早くから見通していたのである。
GMの組織の欠陥
他方、組織についてはどうだろうか。本社は、各事業部について深く知ることも、コントロールを及ぼすこともできなかった。マネジメントの方向性は、少人数による駆け引きによって決められていた。
GM屈指の逸材ウォルター・クライスラーは、ゼネラル・エグゼクティブに就任してから、権限の範囲をめぐってデュラントと衝突した。クライスラーは信念と情熱の人である。自分の考えが受け入れられないとわかると、退社を決意した。
忘れもしない。あの日、叩きつけるようにドアを閉めて、彼はGMを去っていった。それがクライスラー社誕生の序曲となった。
GMは組織に大きな弱点を抱えていた。第1次世界大戦中、そして戦後のインフレ期には表立ったひずみは見られなかったが、1919年末から20年にかけては見すごせない問題へと発展した。
各事業部とも生産能力の拡大を計画しており、要求すれば巨額の予算を得ることができた。ところが、資材コストと労働コストが急騰したため、拡大の完了を待たずに予算が底を突いてしまった。各事業部の支出は軒並み予算をオーバーした。
事業部間で予算の奪い合いが始まり、経営上層部でもさまざまな思惑が交錯するようになった。デュラントはトラクター事業にいたく肩入れしており、予算の増額を求めた。これに対して財務委員会は、詳しい情報を基に投資収益率(ROI)の見通しを示すように迫り、承認を保留している(1919年10月17日)。
同じ日、私がニュー・デパーチャー事業部の予算としておよそ710万ドルを申請したところ、こちらは認められることになった。すると経営委員会(同31日)の席上で、デュラントが反対意見を示した。
結局、ニュー・デパーチャーの予算は3分の1のみが認められ、残りは優先株式を発行して調達することになった。デュラントは、デトロイトのデュラント・ビル(GMビル)に730万ドルを追加投資する案にも反対した。
財務・経理の責任者だったメイヤー L. プレンティスの回想によれば、反対の理由は、ビル建設よりも工場や日々の事業に資金を回すべきだろうというものであった。この点ではデュラントはラスコブと考え方を異にしていたことになる。
この見解の相違については、ジョン L. プラット――デュポンからGMに移ってデュラントを補佐していた人物――も覚えているという。私の記憶に残っているのは、デュラントが議長席を離れ、反対の意思表示をするために別の席に着こうとしていた姿だ。
経営委員会はデュラントの意見を支持した。事実、すべての要求を満たすだけの資金はなかった。その後、焦点は資金をいかに配分するかではなく、いかに調達するかに移っていった。
11月5日にはニューヨークで財務委員会が開かれ、その年の10月から翌1920年12月までの15カ月間の収支見通しがデュラントから発表された。議論を経て、全会一致で以下の点が承認された。
・収支見通しで示された予算を実行に移す。
・5000万ドルの社債を速やかに発行する。
・状況が許せば同額の社債を追加発行する。
その日の午後、同じ議題で経営委員会が開かれた。議事録にはこう記されている。
冒頭、財務委員会のJ. J. ラスコブ議長が今後の資金調達について簡潔に説明を行った。その内容は、社債を発行して、前回否決された予算を手当てするというものである。
ラスコブが説明を行った後、デュラント・ビル、ニュー・デパーチャー事業、トラクター事業、その他の予算が全員一致で承認された。財務委員会もそれを追認した。
以上のような予算手続きについて、私自身が後にこう振り返っている。
(適切な予算策定プロセスがなかったことから)経営委員会のメンバーが担当事業について予算を求めれば、常に、他のメンバー全員がそれを支持していた。言い換えれば経営委員会は、各事業部に厳しく目を光らせるという本来の使命を果たさず、形骸化していたのである。
いったんはすべての予算要求が受け入れられたが、やはりそれで事が収まるわけではなかった。資金調達が暗礁に乗り上げたのである。総額8500万ドルの社債を売りに出したが、買い手がついたのはわずか1100万ドル相当であった。経営環境が厳しくなりつつあると、金融市場が警告を発していたのである。
もっともこの時点ではまだ、売上高は順調に推移していた(1918年から20年まで各年2億7000万ドル、5億1000万ドル、5億6700万ドル――1920年については推定)。
予算をめぐる攻防を通して、財務運営の大きなゆがみが浮き彫りになった。1919年12月5日には、経営委員会の場でデュラントが「予算割り当て方法に問題がある」と発言し、全員の同意を得た。デュラントは新たな予算審査手続きを提案し、社長に報告する仕組みも必要だと述べた。
私はこの構想を実現するために特別委員会を設けるべきだと主張した。この主張が容れられ、プラットが議長となった。
私はさらに、各組織からの予算要求を整理するために別の委員会も提案した。こちらは「予算要求ルール策定委員会」と名づけられ、私が議長を務めることになった。使命は、予算承認の権限を適切に配分することであった。この時期に私は、他にも組織分野のプロジェクトを2つほど進めていた。
以上のように、経営委員会、財務委員会共に、必要な情報も手にしていなければ、事業部に対して適切なコントロールも及ぼしていなかった。各事業部は無軌道に支出を続け、追加で予算を求めればそれも認められていた。
経営委員会の議事録からは、1919年末から20年初めにかけて、支出が予算を大幅に超える事態が続いていたことがうかがえる。ある時などは1033万9554ドルもの超過が了承されている。その大きな部分は〈ビュイック〉〈シボレー〉〈サムソン・トラクター〉が占めていた。予算の超過は常態化していた。
しのび寄る不況
1919年が暮れようとする頃には、経済不況をいかに乗り切るかが大きな課題となっていた。12月27日の経営委員会で、私は以下のような解決策を提示し、全員一致で賛成を得ている。
緊急時に備えて資金調達の方法を検討し、財務委員会に提示するために、新たな委員会を設置する。想定するのは、深刻な不況、あるいは数カ月にわたる大掛かりなストライキによって工場が操業停止に陥ったような場合である。
不況の厳しさについては、アメリカ社会の大部分と同じく、GM社内でも軽く見ていた感がある。
おそらくそのためだろう。経営委員会、財務委員会共、各事業部の動きにブレーキをかけられずにいても、どれほど深刻な波紋を生むか気づいていなかった。
1920年2月末になると、財務委員会のメンバーであるJ. A. ハスケルが経営委員会の同意を得て、各ゼネラル・マネジャーにこう諭した。
「予算についてお願いがあります。状況に応じて変わる可能性があるのであれば、必ず経営委員会に付議してください。既成事実をつくるようなことはしないでください」
少しも強制力を感じさせない、穏やかな「警告」だった。
ブレーキが効かなかったのは予算だけではない。在庫も膨れ上がっていた。1919年11月、翌会計年度の生産量を36%増やすことが決まった。ベースとなったのは、経験則ないし事業部長の目標である。
この計画を達成しようと、各事業部はすぐに資材を購入し始めた。1920年3月末には、8月から始まる次年度に関して、全社の生産計画が承認されている。自動車、トラック、トラクターを合わせて87万6000台という楽観的な数字であった。
財務委員長のラスコブは3月から4月にかけて、6400万ドル相当の普通株式を売却しようと準備に取りかかった。およそ1億ドルの支出に備えるためである。デュポン、J.P. モルガンのほか、イギリス資本がこれを引き受け、取締役を派遣してきた。
1920年5月には、工場・設備関連の支出が予想以上に増えていること、在庫量が膨れ上がっていることにラスコブが懸念を示した。経営委員会の議事録には氏の発言内容がこう記されている。
「1億5000万ドルがリミットである。在庫がこの額を突破したら、財務が危機に瀕する」
その1週間後、在庫委員会が特別に招集され、デュラント、ハスケル、プレンティス、私の4人が各事業部について在庫、支出額の上限を定めた。
ところが、生産計画が削られても事業部長たちは上限を守ってくれず、またそれを防ぐ有効な手立てもなかった。分権化のマイナス面ばかりが表れていた。
支出が増え続けていくなか、需要のほうは――1920年6月に一時盛り返したのを除くと――落ち込む一方であった。
8月には、経営・財務両委員会が、5月に設定した支出上限を守るように再度、各事業部長に注意を促した。10月に入ると、財務委員会はプラットをトップとする在庫委員会を常設し、何とか事態を収拾しようと試みた。しかし、遅きに失した。
以下に在庫の推移を示しておく。
1月 1億3700万ドル
4月 1億6800万ドル
6月 1億8500万ドル
10月 2億900万ドル――5月に定めた上限値を5900万ドル超過した
以後、事態はさらに予断を許さない方向へと進むことになる。
9月、需要はひどく低迷した。それを受けて、ヘンリー・フォードが21日、値下げを断行した。下げ幅は20ないし30%だった。
デュラントは各事業部のセールス・マネジャーの支持を得て、当面は価格を維持することに決め、ディーラーや顧客にもその旨を約束した。
そして10月。GMはいよいよ窮地に立たされた。多くの事業部が購買代金や給料の支払いに苦慮するようになったため、全社として8300万ドルを短期に借り入れた。
11月には、工場が事実上の操業停止に陥った。わずかに〈ビュイック〉〈キャデラック〉のみが細々とながらも生産を続けていた。アメリカ経済全体が不況色を強めていた。
私はかなり以前から、社内の動きに胸を痛めるようになっていた。痛みは激しさを増すばかりだった。
1919年の暮れ以降は、種々のひずみを解消するために、組織改編の案をつくってデュラントに進言するようになっていた。
デュラントは受け入れるそぶりを示しながら、その実はまったく腰を上げなかった。おそらく、それだけの余裕がなかったのだと思う。
目の前にある事業上の危機、さらには個人財政の危機に対処することで消耗し切っており、組織を改めるといった視野の広い問題を考えることなどおよそ不可能だったのだろう。
私は深い悩みに押しつぶされそうだった。GMのマネジメントについて、針路について……。1920年8月には、ついに1カ月の休暇を取ることにした。しばし会社を離れて、身の振り方を考えたかった。
私財はすべてGM株式で占められていたが、それでもまず心に浮かんだのは、クライスラーのように退社することだった。リー・ヒギンソン・アンド・カンパニーから、産業分析担当のパートナーとして来ないかとオファーも受けていた。オファーの主はストロウである。
すでに述べたように、ストロウは1910年から15年までGMの財務・経理を統括し、その後、ナッシュ・モーターの経営を支援するようになっていた。
私はすぐには決めかね、ヨーロッパへ渡って考える時間を持つことにした。心が揺れた。
自分の利益を守るために、保有株式を売却するようなことをしてよいものだろうか。デュラントが、たとえ進め方が適切でなかったとしても、あらゆる方策でGMの市場価値を維持しようとしているというのに――。
イギリスに着くと〈ロールスロイス〉を注文した。妻とドライブをしながら各地をめぐろうと思ったのだが、結局、それを受け取ることも、旅を続けることもなく、8月にはアメリカに戻った。出社してみると、休暇を取っている間に大きな変化が起きていた。状況はよりいっそう緊迫の度を深めていた。私は推移を見守ることにした。
デュラントの退陣
景気低迷時の常として、1920年にも株価が大幅に下落した。GMの工場は依然として、ほぼ全面的に操業を停止していた。このような事態が重なって、ついに一つの時代が終わりを告げることになった。デュラントが退任したのである。1920年11月30日のことだった。
ここに至るまでの経過は、ピエール S. デュポンがイレネー・デュポン(E. I. デュポン・ド・ヌムール社長:当時)に宛てた手紙に詳しい。
そこには、デュラントが株式ブローカーに多額の借金を抱えていたこと、その担保にGMの株式が使われていたこと、しかもそうした事実をデュポンはまったく知らされておらず、その事実が明るみに出たのが退任のわずか3週間ほど前だったこと、これに伴うGMの危機を回避すべく、奔走したことなどが綴られている。
ここまで、デュラントに焦点を当てて筆を進めてきたが、GMが拡大を続けるうちに景気の波に押し流されそうになったのは、デュラント一人の責任ではない。拡大路線を強く後押しし、支出を認め続けたラスコブも、同じように責めを負うべきである。デュラントには、そのマネジメント・スタイルゆえにGMを迷走させてしまった非もあるだろう。
漏れ伝わってくるところによれば、氏は1919年の末にはアメリカ経済の先行きについて悲観的な見方を持ち始めていたという。しかし、そのことを示す資料は残されていない。資料から知り得る限り、デュラント、そしてラスコブは、楽観的に拡大路線をひた走っていった。
時として2人の意見が対立したとしても、それは――路線そのものの対立ではなく――あくまでも「何に資金を振り向けるか」という点についてであった。
デュラントが株式取引に深く関与していたことは、どう見るべきだろうか。私はあの行動は、GMを誇りに思う強い気持ちから出たものだと考えている。GMに限りない可能性を見出していたことも背景にあるだろう。その見通しが正しかったことは、歴史が証明している。
他方、J.P. モルガンとデュポンが、あのような厳しい環境にもかかわらずデュラントの債務処理を引き受けたことには、大きな雅量を感じずにいられない。
デュラントは1921年に、自分を救済するために設立された会社の利権をデュポンに返上し、その対価として23万株のGM株を受け取っている。当時の市場価値は合計299万ドルであった。
デュラントがその株式を処分したことは、本論とは何の関係も持たないが、もし終生それを手放さずにいたら、市場価値は2571万3281ドル、配当を含めた経済価値は2703万3625ドルに達していたはずである(デュラントは1947年3月19日に帰らぬ人となった)。
話を戻そう。1920年、GMは土台から崩れ落ちる寸前だった。全米を襲った経済不況、経営コントロールの欠如、さらにはデュラントの退任……。これほどの激動に見舞われながら、GMはいかにして再生への道を歩んでいったのだろうか。
※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。
[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。
有賀裕子/訳
DHBR 2002年3月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.
アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に建て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。