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自動車産業との出会い
私とゼネラルモーターズ(以下GM)の出会いを語るためには、壮大なテーマをしばし離れ、プライベートな事柄にも触れなければならない。私は1875年5月23日――今日から見れば、古きアメリカがその面影を少なからず留めていた時代――に、コネチカット州ニューヘブンで生まれた。
父はベネット・スローン・アンド・カンパニーという商店を営み、紅茶、コーヒー、煙草などを扱っていたが、1885年にニューヨークのウェストブロードウェイに店を移している。このため私は、10歳の頃よりブルックリンで育つことになった。いまでもブルックリン訛りがあると言われる。
父方の祖父は教師、母方の祖父はメソジスト派の牧師だった。兄弟は私を頭に5人。妹キャサリンはプラット家に嫁いだが、すでに未亡人となっている。弟クリフォードは広告ビジネスの世界に身を置き、ハロルドは大学で教鞭を執っている。四男のレイモンドは病院管理を専門とし、大学で教えるかたわら、著述なども行っている。私たち兄弟はみな、それぞれの関心分野に情熱を傾け尽くすタイプのようだ。
私が社会に出た頃、奇しくも自動車産業が生まれている。1895年、デュリエ兄弟がそれまでの自動車研究を土台にして、(私の記憶では)最初のガソリン自動車メーカーを設立したのである。
この年私はMIT(マサチューセッツ工科大学)から電気工学の学位を得て、ハイアット・ローラー・ベアリング・カンパニー(ニュージャージー州ニューアーク:後に同ハリソンに移転)に勤務するようになった。
ハイアットが生産していた減摩ベアリングは、後に自動車部品として用いられるようになり、それが私を自動車産業へと導くことになる。以後、ごく一時期――しかも非常に初期――を除いて、私は今日まで常に自動車産業と共に歩んできた。
ハイアットは小規模な企業だった。社員数は25名前後。10馬力のモーター1基で、すべての生産設備を動かすことができた。ハイアットの減摩ベアリングは、ジョン・ウェズレー・ハイアットが独自のアイデアを基に考案したものだった。
氏はセルロイドの発明者でもある。セルロイドはプラスチックの先駆けで、象牙の代わりにビリヤード・ボールに用いる案があったが、ついに実現しなかった。
当時、減摩ベアリングは一般に完成度が低く、あまり知られていなかったが、ハイアット製のベアリングは他の機械部品と比べて決して遜色がなく、走行起重機、製紙機械、鉱山用車両などに採用された。
それでも、全社の月間売上高は2000ドルにも満たなかった。私自身は月給50ドルで、雑用、製図、セールス、総務アシスタントなどさまざまな仕事をこなしていた。
ハイアットには将来性を見出すことができなかったため、ほどなく退社して、家庭用冷蔵庫メーカーに職を得た。こちらのビジネスのほうがはるかに有望と思われた。製品はアパート向けの電気冷蔵庫(棟全体で1台を共有することを想定していた)で、当時としてはまだきわめて珍しかった。
だが2年後、私は考えを改めるようになった。この製品はあまりに複雑で価格も高い。普及させるのは難しいだろう。
その間、ハイアットは依然として厳しい状況にあった。設立以来一度として利益を上げたことがなく、ジョン E. サールズという人物の資金援助によって何とか持ちこたえていたのだが、サールズが援助を打ち切ると言い出した。このため、1898年には清算せざるをえないところまで追い詰められていた。
そこで私の父とその仲間が合計5000ドルを投じることになった。私が6カ月ほどハイアットでできる限りの努力をする、という条件がついた。私もこれを受け入れ、ピーター・スティーンストルップという若手と共に再建を試みることにした。スティーンストルップは当初、経理を預かり、後にセールス・マネジャーとなっている。
父たちと約束をしてから6カ月後、販売量、売上高共に上向き、1万2000ドルの利益を上げることができた。「もしかしたら繁栄に導けるかもしれない」と希望が湧いてきた。そして私はゼネラル・マネジャーの肩書きを得た。
だがあの時はまだ、ハイアットの事業を介してやがてGMと縁を持つようになるとは、思いも寄らなかった。