1つ目は、「大量生成」時代の到来である。産業革命が「大量生産・大量消費」によって近代社会を発展させる過程で公害などの外部不経済を生んだように、AIによる情報・コンテンツの「大量生成」も正負の両面を持つ。「その中で、私たちはどのような情報に基づいて価値規範を築き、自分の視座をどこに置けばいいのか」。情報爆発や情報洪水がすでに社会問題となり、情報に対する人間の処理能力が限界を超えたといわれる現代において、この問いは極めて重い。

 2つ目の論点は「価値設定の問題」だ。AIによって企業と個人、個人と個人の情報の非対称性が解消されていく未来において、「私たちはいったい何に価値を見出し、対価を支払うのか」という命題が浮かび上がると生田目氏は指摘する。たとえば、AIが著名なアーティストそっくりの楽曲を無限に生成できるようになった時、オリジナリティや創造性の価値はどこに見出されるのか。これは、ビジネスの根幹を成す価値設定そのものを再定義しかねない、本質的な問いである。

 この2つの論点を踏まえたうえで、「目先の変化にキャッチアップし続けるだけでなく、自社の強みを活かした『ありたい姿』を描き、それに基づく事業設計、組織運営を目指すべきではないか」と生田目氏は、セッション参加者に問いかけた。

 議論が進む中、暦本氏はAIの進化がもたらすもう一つの側面として、「DIY型アプローチ」の可能性に言及した。AIがプログラミングなどの専門技能を民主化することで、従来は専門家に依存せざるをえなかった問題解決に、現場の担当者や一般市民がみずから取り組めるようになると言う。これは、トップダウン型の変革とは異なる、現場主導型での社会変革を加速させる可能性を秘めている。

暦本純一
東京大学 情報学環 教授
ソニーコンピュータサイエンス研究所 フェロー・CSO

 特に、インフラ老朽化と人材不足という深刻な課題を抱える日本にとって、この変化は大きな好機となりえると暦本氏は語る。「AIは、現場の努力や創意工夫を強力に後押しします。その意味で、AI革命は、日本が直面する危機を乗り越えるための絶妙なタイミングで訪れたといえるでしょう」。現場の能力をAIが拡張する。そこには、課題先進国・日本ならではの活路が見出せるのかもしれない。

未来を描くうえで必要な、人間ならではの「力」とは何か

 AIが社会構造を大きく変える中で、人間に残された、あるいはこれからいっそう重要になる「力」とは何か。セッションは、人間の根源的な強みへと焦点を移した。

 暦本氏は、アマゾン・ドットコム創業期の「ドア・デスク」のエピソードを引き合いに出した。創業者のジェフ・ベゾス氏が、コスト削減のためにホームセンターでドアを買い、みずから脚を取り付けて机として使ったという有名な逸話だ。効率だけを求めるなら安価な既製品を買ってくればいい。しかし、自分の頭と手を動かして工夫する行為には「楽しさ」があり、それを仕事とすることには「充足感」が伴う。いまでも世界中のアマゾンのオフィスに「ドア・デスク」が設置され、質素倹約、創意工夫、そしてユニークさといったアマゾンの企業文化を象徴する存在となっているゆえんである。

「人間は、石器時代から物をつくり出すことに喜びを感じてきました。それは義務感からではなく、楽しさや嬉しさが原動力となっています。それが人間の本質であり、AI時代においてもこの力は不可欠だと考えます」

 問題を発見し、解決するプロセスそのものを楽しむ力 。その好例として、暦本氏は世界最大級のオンライン教育プラットフォーム「カーンアカデミー」を挙げた。創設者サルマン・カーン氏が、幼いいとこのために始めた個人的な遠隔教育が、多くの共感を呼び、ビル・ゲイツ氏らの支持を得て世界的なムーブメントとなった。この熱意や志こそが、AIにはない人間ならではの力だと暦本氏は強調する。

 生田目氏もこの考えに深く共感する。「アマゾンでドア・デスクが企業文化の象徴となっているのも、創業期のメンバーがその経験を、熱意を持って伝えたからこそであり、それに共感したり、楽しさを感じたりすることが、新たな事業や成長のエネルギーにつながっているのだと思います」

生田目雅史
東京海上ホールディングス 専務執行役員 グループデジタル戦略総括
AIガバナンス協会 代表理事

 AIがどれだけ優れた示唆を与えても、最終的にそれを実行し、仲間と共感し、社会に貢献したいという志を問うのは人間の役割であり、「人を巻き込み、共感を呼び、体験から共通の価値観を見出すことは、社会の中で新たな価値を創造するために不可欠です」と語る。

 さらに生田目氏は、人間ならではの力として「偶然の発見を必然に変える力」と「問いの方向性を定める力」を挙げた。人間同士の対話から生まれる偶発的なアイデアや気づき。それを捉え、価値あるものへと昇華させるプロセスは、依然として人間に委ねられている。

 また、問いの方向性を定める力の重要性を、少子高齢化問題の例で示した。たとえば、輸血用血液の不足という課題に対して、献血者を増やすのではなく、「人工血液の開発に投資を集中すべきではないか」と、課題設定そのものを変える。このように前提を疑い、課題を再定義する力、それこそが問いの方向性を定める力であり、人間とAIの共進化を導くうえで不可欠だと生田目氏は結論づけた。