部門間の壁を壊す「共通言語」と「共通認識」
変革を阻むもう一つの壁が、部門間の根深い断絶だ。特に、事業部門と情報システム部門の「溝」は、多くの企業でDXのボトルネックとなっている。売上高や利益率といったKPI(重要業績評価指標)で語る事業部門と、QCD(品質・コスト・納期)や生産性を重視する情報システム部門とでは、思考の前提も使う言葉も異なる。
この溝を埋めるために不可欠なのが、組織横断的な「共通言語」の確立だ。それは単なる用語の統一ではない。IT投資をコストではなく、「ビジネス価値」の観点から議論する経営戦略そのものである。水谷氏は、その第一歩として、IT投資ポートフォリオを経営層と事業部門、IT部門が一体となって議論することを推奨する。たとえば、投資案件を「トップラインを上げるための『攻め』の投資か、事業継続に必要な『守り』の投資か」という軸で分類し、戦略的な優先順位づけを行う。こうした対話を通じて、各部門の判断基準が揃い始め、ITが経営にどう貢献するのかという共通認識が醸成される。
この「共通言語」を体系化したフレームワークが、TBM(Technology Business Management)である。TBMは、ITコストをビジネスサービスとひもづけて可視化し、IT投資の価値を最大化するための経営規律だ。これにより、経営者はIT投資対効果を客観的に把握し、よりデータドリブンな意思決定を下すことが可能になる。情報システム部門もまた、コストセンターという受け身の立場から脱却し、ビジネス価値創出に貢献する戦略パートナーへと変貌を遂げることができる。部門間の溝を埋めることは、単なる組織内融和策ではなく、経営資源の最適配分と企業価値向上に直結する、極めて戦略的な経営課題なのである。
持続的競争優位を築く
「テクノロジー・スプリント」
今日の経営環境において、新たなテクノロジーに適応するスピードは、企業の盛衰を直接的に左右する。しかし、多くの日本企業では、新技術の導入・評価プロセスが確立されておらず、現場任せの属人的な判断に委ねられているのが実情だ。水谷氏は、この構造的な課題を解決するための新たな経営基盤として、「テクノロジー・スプリント」という仕組みを提唱する。
「開発プロジェクトは納期や予算が決まっているので、どうしても短期目線、安定志向で技術を選定しがちです。テクノロジー・スプリントの専任チームが開発プロジェクトから独立して活動することで、世の中の動向や技術トレンドを俯瞰しながら、中長期的な目線で技術を評価することができます」
テクノロジー・スプリントとは、個別の開発プロジェクトから独立した専任チームが、最新技術の評価・検証を継続的に行い、いつでも活用できる技術として「Tech Library」(テックライブラリー)にストックしておく仕組みだ。このチームは、OODAループ(観察・状況判断・意思決定・実行)のサイクルを回しながら、自社のビジネス戦略に合致する有望な技術を常に探索し、パイロットプロジェクトを通じてその有効性を検証する。
この仕組みの効用は、技術選定における「評価コストの削減」と「開発期間の短縮」に留まらず、技術導入の意思決定プロセスそのものを、戦略的な活動へと変革することにある。
たとえば、従業員15万人を超える某製造業では、テクノロジー・スプリントチームが事業部門による「市民開発」を推進するアドバイザーとして機能。評価した技術をテックライブラリーに集約・共有するだけでなく、一定規模以上のプロジェクトではアーキテクチャレビューへの参加をルール化し、全社的な技術ガバナンスの強化と開発促進を両立させている。また、ある大手小売業では、この仕組みをセキュリティロードマップの策定に活用。多様なセキュリティ製品を客観的に評価・検証し、ナレッジとして蓄積することで、より精度の高い戦略的意思決定を実現している。
DXの主役は技術ではなく、あくまで「人」と「組織」である。経営者はいま一度、自社に根を張る「経路依存性」の正体と向き合い、過去の成功体験という呪縛を断ち切らなければならない。そして、未来の成長基盤を築くための新たな経営の仕組みを、強い意志を持って導入することが求められている。水谷氏の提言は、変革の時代を生き抜くすべての経営者にとって、避けては通れない問いを投げかけている。
水谷広巳氏
Hiromi Mizutani
大学・大学院で宇宙物理学を専攻後、シスコシステムズに入社。ネットワークエンジニアとしてキャリアをスタートし、サイバーセキュリティ、データセンター、ハイブリッドクラウドの設計・提案に従事。マイクロソフト日本法人でクラウドアーキテクトを務め、のちに米国本社へ転籍。グローバル規模のDXプロジェクトを牽引し、AI・クラウドを活用した業務変革やIT基盤刷新を推進。2020年よりRidgelinezに参画し、企業のIT戦略立案、クラウドネーティブ化、情報システム部門の変革支援に取り組んでいる。近著に『Leading Transformation チェンジリーダーが挑む「人起点」のデジタル変革』(2025年、ダイヤモンド社)がある。
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