「顧客中心主義」を阻むのは、データでも計算能力でもない
倉橋氏は、フェーダー氏のプレゼンを受けて問いかけを行った。カスタマーセントリシティは決して目新しい理論ではなく、フェーダー氏が20〜30年にわたって研究を重ねてきた、いわば普遍的な考え方だ。「顧客を見よ」と言われれば、多くの経営者は「そんなことはわかっている」と感じるだろう。にもかかわらず、実践できている企業はごく一部に留まる。なぜ、カスタマーセントリシティは企業経営の主流にならなかったのか。
フェーダー氏の答えは明快だった。「実行の大きな障壁となってきたのはデータでも計算能力でも知識不足でもなく、『カルチャー』(企業文化)なのです」。企業には固有の文化や業務プロセスがあり、それを変える必要性を理解していても、実際に変えるのは難しい。一人で声を上げるのではなく、なるべく多くの人が一緒に最初の一歩を踏み出すべきだとフェーダー氏は説く。
米ペンシルベニア大学 ウォートンスクール 教授
専門は、消費者の購買行動を理解・予測するための行動データ分析。顧客関係管理(CRM)、顧客生涯価値(CLV)、新製品の販売予測といったテーマに焦点を当てる。著書に『Customer Centricity』(2020年)など。2026年6月、日本語版『カスタマーセントリシティ』(ダイヤモンド社)が発刊された。
倉橋氏が次に問うたのは、「なぜ『いま』なのか」だ。一部の卓越した企業だけのものだったカスタマーセントリシティが、あらゆる企業にとって避けて通れなくなりつつあるのは、なぜか。フェーダー氏は、3つの理由を挙げた。
第1に、利用可能なデータの質と精度が飛躍的に向上したこと。かつては困難だった個々の顧客行動の詳細な把握と測定が、技術的に可能になった。第2に、競争環境の変化だ。製品の機能や性能だけでは差別化が難しくなり、焦点を製品から顧客へとシフトさせることで新たなブレークスルーが生まれる。そして第3に、AIの存在である。「AIは変化するための能力を加速させます。データとテクノロジーが十分に揃っている今日、カスタマーセントリシティを追求しない理由はありません」
倉橋氏はさらに、評価指標のあり方についても問いを重ねた。フェーダー氏は、従来の会計基準や業績評価指標は生産量や販売個数といった「製品の数量的な動き」を測定する時代の産物であり、いまや顧客を軸とした指標——獲得コストや継続率など——へとシフトすべき時期に来ていると語る。製品の生産量を知ることよりも、顧客ベースをどれだけ構築できたかを知るほうが、はるかに重要だという。
意思決定の罠——過去ではなく将来へ目を向けよ
続くパートで、倉橋氏は柳川氏に、X DIVE参加者を代表する立場からの疑問を求めた。柳川氏はまず、データとテクノロジーの進展によって、かつて「マス」として捉えられていた顧客の姿が、一人ひとりの行動や購買傾向のレベルまで可視化できるようになったことを評価しつつ、率直な疑問をフェーダー氏に投げかけた。
「私たちが『価値のある顧客』と言う時、たとえば自社の売れ筋商品を頻繁に、あるいはたくさん購入してくれるお客様を優良顧客と見なしてしまいがちです。しかしこれは結局、『既存の自社製品にとって良い顧客である』という製品中心主義に陥り、現在の製品がどのくらい受け入れられているかを見ることに終始してしまうのではないでしょうか」
これから市場に投入される新製品を最も支持してくれる顧客が、どのような人物や企業なのかを示すデータはまだ存在しない。既存の製品や過去のデータに意思決定を引っ張られ、保守的なアプローチから抜け出せなくなるのではないか、と柳川氏は指摘したのだ。裏を返せば、まだデータに表れていない顧客の潜在的なニーズを、どうすくい上げるのか、という問いでもある。
東京大学大学院 経済学研究科・経済学部 教授
金融庁金融研究センター長、東京大学不動産イノベーション研究センター長、東京大学金融教育研究センター・フィンテック研究フォーラム代表などを務める。著書に『法と企業行動の経済分析』(2006年、日本経済新聞出版)、『日本成長戦略 40歳定年制』(2013年、さくら舎)など。
フェーダー氏は、「たしかに従来はそうでした。それは誰のせいでもなく、これまではそういうものだったのです。しかし、いまや私たちはデータを手にしています」と応じた。そのうえで、「データを最も効果的に管理し、そこから最大の価値を引き出すためには、データに対する『規律』(discipline)を養う必要があります」と続ける。データをどう扱うかという技術論の手前に、データを何のために使うのか——製品の価値ではなく、顧客の価値を高めるために使う——という姿勢の問題がある。これは、日本ではまだ十分に議論されてこなかった論点だ。
柳川氏が、「それはつまり、データを見る際には未来志向で、将来の戦略とリンクさせる必要があるということですか」と問うと、フェーダー氏は明確に答えた。
「私たちがCLVについて語る時、それは過去の収益性を指しているわけではありません。顧客がどのくらい長く取引を続け、どのくらいの頻度で購入し、どれほどのお金を使うかという統計的な予測、つまり『将来の収益性』(Future Profitability)を指しているのです」
倉橋氏はここで議論を引き取り、カスタマーセントリシティの核心は現状分析ではなく将来予測にあると整理した。そして、柳川氏が提起した、まだ見えていない顧客をどう見出すかという「潜在ニーズ」の問いこそが「次の一手」であると語り、データを解釈し新しい仮説を生み出す「人間の役割」へと次の議論を導いた。