SDGsは民のイニシアティブで実現していくべきだ
たとえ話でも触れたように、MDGsは、開発途上国の課題を解決することを主要なテーマとする行動計画だった。だからこそ議論は、先進国によるODAのあり方や新興国のガバナンスをいかに構築・維持していくかなどに集中した。開発途上国がターゲットになったので、当然ながら先進国の課題には触れておらず、先進国内に顕在化しつつあった格差問題についても具体的な改革目標などは設定されなかった。
MDGsの取り組みは、世界の国々に大きな変化をもたらした。それは毎年国連から公表される「ミレニアム開発目標報告」に詳しく紹介されている。一方で、MDGsの15年間の取り組みで浮かび上がってきたのは、個々の課題の到達目標の達成度とは別に、政府(官)の政策だけでは目標が達成できないのではないかという疑問、そして実際MDGs実施は遅々として進まないという事実であった。
なぜ官だけではできないのか。それには3つの理由がある。
1つ目が、官の政策は「~をしてはいけない」「~でなければならない」など、そもそもの思考が規制的・制限的であることだ。言葉を換えれば拡大生産的でないのである。MDGsである程度の成果は出せても、そこから先に「自律的に回っていく仕組み」を考える習慣がないので、結局長続きしない。
ここで検討されるべきは、「利潤」という論理の導入だ。もし従来のODAや開発支援をシームレスに「利潤」につなげるからくりと結びつけることができれば、すべての取り組みはより拡大生産的で持続的な動きへと変えられる。ただ、そのためには公共政策の最後の部分と民間投資の最初の部分がぴったり同じ形をしていないとカネが流れない。そこが難しい。
2つ目は、官は概してイノベーティブではないことだ。そもそも公共政策は「失敗しないこと」がテーゼとして根底にあるために、過去の成功例を土台として考える傾向が強い。つまり前例主義である。また、イノベーションを敢えて強く志向すると公共政策としての公平性や公正性が損なわれる可能性さえもあるから、なかなか新しい技術を思い切って導入するといった思考回路にならない。
3つ目が、官は現実に達成される効果よりも政策の正統性を追求するきらいがあることだ。つまり、「間違った方法で良い成果を上げるよりは正統な方法で失敗したほうがいい」と思っているから、残念ながらほとんどの仕事が効率的ではない。到達目標と、それを実現するための法的な規制は決められるが、それらを効率的に実現する方法は示されないのである。
先日、ルール破りを恐れない元WFP(国連世界食糧計画)の忍足謙朗さんと対談して、現場では「Do things right(ルールを守る)」ではなくて「Do the right thing(自分が正しいと思ったルールでやる)」という思考回路で判断しないと人が死ぬ、という話で盛り上がった。人が死んでもルールを守るんじゃないかと思う人たちもたくさん見てきた。忍足さんのような人は国連でも例外中の例外である。
そういう意味でMDGsが残した教訓は明らかだ。つまり官の政策による開発ではなく、民間が主体的に各種の課題に取り組まないと持続的な改革と成長に結びついていかないのである。さらに各種の目標の中には、官と民間のリソースが合致していないとできないものが多い。例えば、「HIV感染の防止やエイズ治療、マラリアの防止」などは、民間側の医薬品開発がなければ実現するわけがない。
むしろ民が官よりも先に動くべきであるといってもよいかもしれない。民が官に提案し、官が政策や財源の観点から民のイニシアティブを後押しするような形が望まれる。それはとりもなおさず、開発途上国を中心とした巨大な市場の創造、ビジネスチャンスの到来も意味している。